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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <22> フラワーフェスティバル(FF)

咲かせた亡き長男の夢

 昭和44(1969)年の中国新聞の新入社員は計45人に上った。その中に(長男)一朗がいた。慶応大の恩師の勧めもあって米国留学を希望したが、大切な後継ぎである。まず入社してほしいと頼んだ。悩んだらしいが筆記試験や面接を受けて堂々と入社した。

 身長176センチ、体重は100キロを超えた美丈夫であった。真面目で温かい人柄だった。居るだけでみんな安心した。その一朗が亡くなった。通夜の晩、心を放って泣いた。これ以上の悲しみはないのだと思ったら肝が据わった。一朗の代わりにやり遂げなければならないと思った。

 山本一朗氏は1976年2月27日、髄膜脳炎のため29歳で死去。総合企画室計画担当部長だった

 一朗は広島のためにぜひつくっておきたい、と思うことがあった。一つは祭りであった。書き残したノートによると、平和の尊さと喜びを市民が分かち合い、地域社会に定着させたいというものだった。

 広島は原爆の被害を受けた。8月は敬虔(けいけん)な祈りの「静」の月でありたい。しかし30年たった。5月は平和の尊さと生きていることを喜び合う「動」の月であってよいのではないか。だから、この祭りは国際的な広がりを持ち、市民が主役と、そこまで考えを及ぼしていた。

 展開する場所を平和大通りとし、ここを何日間か交通遮断して行うというのだ。宮沢弘知事に話したり、本社の大下米造事業局長や、中国放送の金井宏一郎君らを中心に(国内外の祭りの)資料を集めたり、討議を重ねたりしていた。

 後に中国放送社長を務めた金井宏一郎さん(72)は言う。「共に東京支社勤務のころから広島に新しい祭りを、と構想を練った。一朗さんは、広島東洋カープの1975年の初優勝パレードがある前から平和大通り一帯を会場に唱えていた」

 一朗の四十九日の席上、宮沢知事や誰彼から祭りをやりたがっていたことが披露された。あとで荒木武広島市長が、その話を詳しく聞かせろと言ってきた。そこで治朗(次男で当時は事業部次長、現会長)が会い、祭りの趣旨や展開のあらましを説明した。治朗は全力で取り組み、一朗のノートを基に企画書をつくり、県警とも交渉した。「フラワーフェスティバル」という名称はノートに書き留めてあった。

 県側は割に積極的だったが、荒木市長は「走りすぎるな」と慎重だった。9月14日、広島商工会議所で知事、市長、山田克彦会頭(広島銀行副頭取)らと会談を開き、ようやく来年5月に開くことで一致をみて記者発表した。

 とにかく未経験の新分野であり、いろんな思惑があった。実質的には中国新聞と中国放送の仕掛け(経費を両社で2500万円ずつ負担)だから、広島財界もマスコミ界も協力的とはいかなかった。自衛隊音楽隊が参加するのを攻撃的に取り上げられたりした。

 第1回(1977年)のFFが迫るに連れ、突き詰めた気持ちに追い込まれていた。それだけに5月3日の初日、快晴の会場に、何万人もの市民が早くから楽しそうに集まっていた時のうれしさを忘れることはできない。

 花の塔に平和の灯をつけ、黙とうで祭りが始まった。佐良直美の歌(テーマソング「花ぐるま」)もよかった。アグネス・ラム(ハワイ出身のアイドル)に群衆が殺到した。花車のパレードに乗ると出発から到着まで2時間以上もかかった。3日間で計125万人が集まった。大成功であった。

(2012年10月24日朝刊掲載)

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