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連載・特集

『信頼』 山本朗 回想録 <24> 未来への布石

新聞を軸に新事業育む

 昭和59(1984)年4月21日、中国新聞情報文化センター(山本朗社長)はCATV(有線テレビジョン放送)設備の設置と業務開始の届けを中国電波監理局に提出、受理された。

 実用ニューメディアとして注目される都市型CATVの放送開始は全国で初めて。しかし、広島のビジネス街に有線を張り巡らすことは考える以上に大変だった。どこの道路を通ってどの電柱に取り付けるか。ビルの管理者によっては引き込みに難色を示した。支店や出張所は本店の許可を取らねばならない。そういう中、会員企業100社の確保は容易ではなかった。

 中国新聞ビル9階に設けた中国ケーブルテレビ(現ふれあいチャンネル)で社長あいさつのビデオ撮りを行った。大きな巻き紙に縦書きした原稿を引っ張ってもらい読んだ。とちりもなくOK。これを7月10日朝からの本放送で流した。

 同軸ケーブル約20キロを架設し、27チャンネル容量のうち自主番組の3チャンネル放送からスタート。1985年の電気通信事業法の改正で、CATVやデータサービスに商社や銀行も参入するニューメディア事業の先駆けでもあった

 これまでのテレビ局では考えられない放送もした。竹下虎之助知事が中国四川省の視察を中国経済クラブで1時間話した。それをつなぎ放しで流した。画面は暗いが音声はよく聞こえる。中国放送から参加している技術者はびっくりしたが、こういうやり方も確かにあると感心していた。

 翌年には(NTTが開発した電話回線で文字図形情報を送信する)プライベートキャプテンを導入し、一般家庭への提供を始めた。なぜ、そんなに突っ走るのかという意見を聞くことがある。私もニューメディアが新聞に取って代わるほどのものとは思っていない。しかし将来かかわりがあるのは確かだと思う。そう信じて行動しているのである。

 中国新聞社の「地域情報ネットワークの展開」は1986年度の新聞協会賞(経営・業務部門)を受賞する。「ニューメディアを実用化し、順次総合化を図る考えは企画性に富む」

 協会賞選考委員会が終わった昼食の席で、一力一夫君(河北新報社会長)が祝ってくれた。「息子(山本治朗専務、現会長)がやった仕事をおやじが選考する。そしてパスするのは協会賞始まって以来ではないか」。私は「この事業は社内で反対もあっただけに受賞の決定は何よりもうれしい」と話した。協会の小林与三次会長(読売新聞社社長)も分かったというふうにうなずいていた。

 昭和62(1987)年にも経営・業務部門で受賞した。「ひろしまフラワーフェスティバル(FF)の創造と展開」である。「市民の平和を希求する心を据え、非収益事業として位置づけている点は新鮮で創意に満ちている」と満場一致だった。治朗は選考委員に祭りの趣旨を弁じた。その途中に京都で下車し、西本願寺納骨堂に眠る(兄でFFを提唱した)一朗に説明したそうだ。

 ニューメディア事業に参画し、本社が1988年設けたメディア本部長に就いた浅野温生さん(80)はこうみる。「インターネットが普及した今からみれば試行錯誤の試み。しかし、その取り組みが、新聞を軸にした多様な情報発信と読者サービスの展開につながっている」。ふれあいチャンネルは現在、広島など3市1町の35万世帯エリアを対象に67チャンネルを放送している

(2012年10月26日朝刊掲載)

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