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連載・特集

『生きて』 日本被団協代表委員 坪井直さん <4> 爆心地1.2キロ

女性救えず今も悔やむ

 原爆投下時、広島工業専門学校(現広島大工学部)の3年生だった

 夜明けまでクラス全員で学校を警備していました。警戒警報が解除されたんで午前7時50分ごろ、鷹野橋(現広島市中区)の食堂で朝食を取りました。麦5割、大豆3割、残りの2割が米というご飯に、塩汁に海藻が入ったおかず付き。それに、たくあん2切れという簡単な朝食を5、6分で食べ終えました。礼を言って食堂を出るところで下級生3人と会ったんです。

 「坪井先輩、もう一度食事を一緒にしませんか。外食券なら何とかします」。心が動きましたが、食堂の娘さんの顔が浮かびました。いやしい学生だと思われはせんか。恥ずかしくなり、学校へ戻ることにしたんです。それが8時5分ごろでした。後輩3人は原爆で死んだそうです。もし、もう一度食事をしていたら私は生きていなかった。「昼食を一緒に食べよう」というのが最後の会話になってしまった。

 下宿先に荷物を取りに帰ろうと、富士見町(現中区)辺りを歩いていた。突然、光に襲われた

 「シュルシュル」と、不気味な音がしたかと思うと、カメラのフラッシュのような銀白色の光を浴びた。とっさに伏せたつもりじゃったが、爆風で10メートルぐらい吹き飛ばされ、気絶しました。何分たったかは分からん。気付いた時、辺りは真っ暗で、100メートルぐらい先が見えんかった。運悪く、自分のところに爆弾が落ちたと思いました。「よくもやったな!敵を絶対討ってやる」。とっさにそう思いました。

 「助けてください」。全壊した家屋から、女性の声がした。下敷きになっていて姿は見えない

 助けようにも、思うように体が動かんかった。その時初めて自分のけがに気付いたんです。シャツの腕の部分と、ズボンの膝から下が焼け落ち、両足、両腕はやけどで黒焦げ。腰からどす黒い血が流れていました。力が半減しました。

 一人では助けられんので人を呼ぼうと思い、「待っとってや。頑張っとってや」と声を掛けた。周りの人もけがをしていて一緒に助けてくれる人はおらんかった。どんな理由であれ、女性を救えなかった自分に、今でも負い目を感じています。

(2013年1月19日朝刊掲載)

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