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連載・特集

『生きて』 日本被団協代表委員 坪井直さん <5> 御幸橋西詰め

死を覚悟し名前を記す

 爆心地から約1・2キロで被爆し、大やけどを負った。着ていたシャツの背中が燃えていた

 10分か15分の間、火の付いたシャツを着たままだったんです。何かチカチカすると思ったが、皮膚の感覚は鈍かった。慌ててシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になりました。この火が広島中の火事になってはいけんと思って消しましたよ。自分もひどいけがをしておったんで、広島文理科大(現広島大)の医務室へ行ったが、中はぐちゃぐちゃで誰もおらん。そうこうしていると、大学の周囲から火の手が上がりました。

 近くの伯母の家へ逃げることにした。途中、目玉が頬にぶら下がり血だらけになった女学生や、木切れが胸に突き刺さった女性を見た

 伯母さんの家は全壊。しかも、伯母さんは私が誰なのか、すぐに分からん様子じゃった。今も痕が残っとるように顔はずるずるで、耳たぶはちぎれ、唇が腫れとったんです。伯母さんも頭から血を流していました。私は迷惑を掛けてはいけんと思い、引き留める伯母さんを振り切りました。体力も気力もないまま、あてもなく逃げました。

 しばらくして力尽きた。そのうち、御幸橋西詰め(現広島市中区)に、仮の治療所ができたという話し声が聞こえてきた

 御幸橋までは300メートルほどのわずかな距離じゃったが、自分を励ましながら、休み休み、1時間ぐらいかけて、たどり着きました。そこには、たくさんの被災者がおった。油が入ったバケツに手を突っ込み、やけどした所にべたべたと塗りまくっていました。私は水ぶくれが破れ、肌がむき出しになっていました。人に当たると痛いし、人の群れの中に入って行く元気もなく、もうだめじゃ、と思いました。

 治療らしい治療はしてもらえず、死を覚悟しました。「坪井はここに死す」。小石を拾い、地面にそう書きました。名前が縫いつけてあったシャツは火が付いて捨てたので、自分がここで死んだことを、生きていた証しを残そうとした。この先、国はどうなるのか。友達は助かったのか。おふくろや兄弟はどうしているのか。思いは巡り、意識は遠のいていきました。

(2013年1月22日朝刊掲載)

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