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連載・特集

『生きて』 日本被団協代表委員 坪井直さん <8> 教職

生徒と苦労分かち合う

 被爆後は療養生活を送り、1946年秋から中村高等女学校(現大柿高、江田島市)に勤務。47~57年は、地元の音戸中(現呉市)の本校や分校に在籍した

 被爆翌年の夏、ようやくつたえ歩きができるようになった。発明家になる夢は諦め、数学の教員になった。当時は春休み、夏休み、冬休みに加え、農繁期も休み。体が持ちこたえられると思いました。じゃが、そのうち、ただの給料取りではいけんと思い、学校の図書館で教育関係の本を読みあさりました。

 音戸中時代は、学校に真面目に通わない男子生徒たちを集めて、「坪井学級」をつくった。戦後の貧しい時代。家計を支えるために学校を休む生徒もいた

 勉強が苦手な生徒のことを考えるのが教育、というのが私の考えだった。男女共学じゃったし、校長を説得しました。自分の方針が間違っていたら、教師を辞める覚悟でした。

 宿直室に泊まり込んで生徒と向き合った。5、6人の生徒が交代で泊まり、冬は理科室の暗幕にくるまって寒さをしのいだこともありました。生徒が学校に泊まれば、翌日、欠席することもないしね。家に風呂がない生徒を銭湯に連れて行き、真夜中に生徒の破れた制服を縫うこともあった。

 勉強は、小学校で習う漢字から教え、字が読める喜びを教えた。我流のピアノで唱歌を弾くこともありました。生徒がやる気を起こすようにしたんです。諦めるな、ひがむな、負けるな、と。

 次第に生徒に変化が生まれ、保護者の信頼も得られるようになってきた。しかし、病に倒れてしまう

 最初は目つきが厳しかった生徒も落ち着いてきました。学校そばの丘で「あの空を見よ。未来を見よ!」と言って記念写真を撮った。高校へ進学した生徒もおるし、工場の経営者になった生徒もおります。

 しかし、私は貧血で倒れ、入院することになった。診断は、慢性の再生不良貧血症。原爆で血液を造る機能をやられたんです。医師に働きたいと訴えると、死を覚悟しろと言われました。それでも、生徒が待っとると思ったら、病院にいる自分が本当に情けなかった。

(2013年1月25日朝刊掲載)

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