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連載・特集

『生きて』 日本被団協代表委員 坪井直さん <11> 旗印

「国家補償」求め続けて

 中学校長を退職してしばらくたった1993年、森滝市郎氏(1901~94年)が率いていた広島県被団協の事務局次長になった

 森滝さんと親しかった「めいさん」から、「事務局次長の体調が悪いから後任をお願いできないか」と頼まれた。めいさんとは、全国被爆教職員の会の会長だった石田明さん(1928~2003年)。私が教員だったころ、平和教育の研修会で知り合って以来の仲でした。

 しばらく考えさせてもらおうと思ったら、明日が総会じゃと言う。「むちゃ言うな。平和教育はやってきたが、そういう運動はしたことがない」と答えました。しかし「おまえも被爆者じゃないか」と言われ、引き受けることにしました。

 被爆証言はやっていましたが、管理職の校長上がり。周りの人は、行政寄りの人間だと思ったでしょう。昔から被団協におったわけでもなく、戸惑いはありました。学校とは全く違う世界。事務局次長になってから、被団協の歴史を必死で学んだ。

 94年7月には、事務局長に就いた。その年の12月、被爆者の悲願だった「援護法」が成立した

 肝心の「国家補償」が抜けていた。国が起こした戦争にもかかわらず、補償されるのは軍人や軍属だけ。原爆で亡くなった人の遺族への補償はない。成立してからは、議員さんも一般の人も、被爆者援護法ができたのだから、ぐずぐず言いなさんな、となった。しかし、国の「戦争だから我慢しなさい」という受忍論を覆すためにも、まだ訴えんといかん。原爆だけでなく、空襲被害者も補償されんといかん。

 県被団協は、原水禁運動分裂のあおりで二つに分かれた。金子一士氏(87)が理事長を務める、もう一つの県被団協とは、97年から互いの総会にトップが出席するようになった

 金子さんとは同じ教員で仲も良かった。当時、内部から「組織を売るのか」と批判も出た。分裂したことで力がそがれた部分もある。だが、疑心暗鬼のまま一緒になっても駄目。組織の統一は無理でも、協力できる部分で手をつないだらいい。

(2013年1月30日朝刊掲載)

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