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連載・特集

子どもたちの2年 福島から避難して <上>

遠い父さん

みんな笑顔に 僕頑張る

帰郷の日いつ すれ違う両親

 東日本大震災と福島第1原発事故から2年がたった。放射能汚染を避け、福島県から広島県内に逃れている人は300人以上に上る。子どもたちはどのような思いでこの2年を過ごし、いまと向き合っているのか。広島市内で暮らす2家族の子どもの心を追った。(教蓮孝匡)

 この2年で身長が10センチ伸びた。転入した広島の小学校では陸上クラブに入り、かけっこも速くなった。母と姉と弟と、4人での避難生活。「僕がしっかりしないとな」と新妻朋弥君(11)は思う。最近はめったに泣かない。でもあの夜を思い出すと、少し涙が出る。

 昨年1月、福島第1原発から50キロほどにある福島県いわき市の自宅。父良克さん(39)と母有紀美さん(37)が、深刻な顔で話をしている。二人の声がだんだん大きくなる。

 「子どもの体を考えたら、いわきにはいられない」と、母が切り出した。冬休みに一時疎開した広島に移り住もう、みんなで安心して暮らそう、と。

 家電販売店を営む父は「何を言い出すんだ」と声を荒らげた。「お客さんを放って行けない。国も大丈夫と言ってるじゃないか」

 ぶつかり合う両親。朋弥君はこたつに入りうつむいていた。恋人みたいに仲良しで、買い物のときは手をつなぐ父と母。けんかなんかしないで―。「僕は広島に行きたい」。泣きながら思い切って言った。ただ漠然と、放射能が怖かったから。

 そのひと言が父を動かしたのかもしれない。2週間後、広島市安佐南区に移り住んだ。母と高校2年の姉唯さん(17)、小学1年の弟凌君(7)と2年間の約束で。「母さんを頼むぞ」。父の言葉を朋弥君は忘れない。

 伴小に入り、いま5年生。「母さんは仕事、姉ちゃんは部活があるから」と、授業が終わると児童館で待つ弟を迎えに行く。帰ったら友達の家に遊びに行くのを我慢して、宿題を見てやる。「お兄ちゃんだし。僕が広島に行きたいって言ったんだから、頑張る」

 そんな朋弥君の気持ちは、有紀美さんにしっかり届いている。「お父さんっ子なのに、寂しいのをこらえて我慢して。無意識のうちにみんなを笑顔にしようと思ってるみたい」と見つめる。

 電話の向こうの夫は時折、不安定な胸の内をこぼす。「働く気が起きない。家事も大変だ」「早く帰ってきてくれ」…。夫も独りぼっちなのだ。

 でもこっちだって心細さと闘いながら子ども3人を守っている。「まだ帰れない」と、ついとげとげしく言ってしまう。離れていると互いを思いやれなくなる。親の口論など、子どもに聞かせたくないのに。

 受話器を持つ母の声が鋭くなると、朋弥君は「頭がごっちゃごちゃになって、何も話したくなくなる」と打ち明ける。「だから、みんなが一緒のときは、仲良くしたい」

 良克さんは1、2カ月に1度、6時間以上かけて家族に会いに来る。今月3日も広島へ。安佐南区の競技場であった小学生駅伝大会に出場した朋弥君の応援に駆け付けた。

 朋弥君は1キロを必死に走った。数人を抜いた。「かっこよかったぞ」。父さんの言葉に「ありがと」とぶっきらぼうに答える。本当はうれしくてたまらなかった。父さんと母さんが、一緒に笑顔で応援してくれたから。

 その夜、久しぶりに家族5人で回転ずしを食べに行った。弟は食事中も父さんの膝から離れない。ずっとこの時間が続けばいい。ネギトロ軍艦、サーモン…。何だか胸がいっぱいで、あまり食べられなかった。あした、父さんはいわきに帰る。

(2013年3月11日朝刊掲載)

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