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連載・特集

「トホホ福島日記」 ⑮ 消えぬ不安 今なお続く

 僕らは福島県会津若松市の避難先の実家で、8畳1間を借りている。そこに学習机が2台と2段ベッドが入っている。僕が帰った日に配偶者と僕の布団を敷くと、畳の見える部分はかなり少なくなる。

 食事の時には隣の10畳の居間も借りる。実家のメーンのリビングルームを乗っ取ってしまった形だ。

 食事は毎日、祖父母たちとは別々に作る。祖父母が食材の汚染を気にしていないことのほかに、レシピが違い過ぎる、というのも理由。互いに譲り合って、冷蔵庫、ガスレンジ、流し台を使い、食後は食器洗浄機に一緒に汚れた皿を入れて洗ってもらっている。

 僕の放射能汚染や被曝(ひばく)に対する態度を「放射能ノイローゼ」と言う人もいるが、そのために、実家に転居させられた家族はストレスがたまっただろう。突然、息子家族が転がり込んできた祖父母にしても、大きなストレスだっただろう。

 今、その日々にも、ひと区切りをつけようと思っている。僕たちは実家の近くのアパートを借りることにした。小学生の娘たちに再び転校のストレスをかけることなく、同居のストレスを避ける選択をした。

 ただ、僕は福島市から片道80キロの遠距離通勤を続ける。福島と会津の家賃も二重のままだ。その他にも解決していない問題は山積みだ。

 震災から2年。今はまだ、これまでを振り返る気になれない。原発事故問題が終わっているとは、ちっとも思えないから。僕らは底に穴の開いた船に乗っているんじゃないかと、不安が消えないから。

 昨年1月から15回にわたって発信する場をもらえたことは、思いがけない幸運だった。被爆の経験がある広島の人たちは、どう読んでくださったのだろうか。僕はきょうも福島で、バシャバシャと小さな水しぶきを上げてあがいている。(漫画と文・福島市の高校美術教師 赤城修司さん)=おわり

(2013年3月12日朝刊掲載)

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