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連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <2> 少国民

原爆投下で目が覚める

 広島で敗戦を迎えた経験がなければ、私のドキュメンタリーの出発はなかった。強いと思っていた日本が、手の施しようがないくらいに弱いということを強烈に見た。帝国海軍の滅亡と原爆投下。目の当たりにしなければ、恐らく違う人生を歩んでいると思う。

 江田島市の高田小に通った。校舎の前に広がる江田島湾の向こうに、海軍兵学校があった

 2年生の12月8日に開戦しました。それからの毎月8日は「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」。戦争に行かず、銃後を守る少国民の私どもも朝6時に起き、学校の全員で神社に行き、必勝祈願をしました。戦争協力が教育の中に取り入れられていましたから。

 兵学校の海軍さんは身近で、私たちは頼りにしていた。高田小から海を挟んで2キロくらい。白亜の殿堂といえる大講堂が見えた。その前には、練習艇が着き、巡洋艦が出たり入ったり。訓練の号令が、漂う波と風に乗って小学校まで伝わってくるわけですよ。頑張っていただきたいという思いが常にあった。

 休日には、兵士20人くらいのグループに分かれて地元の家に出向き、接待を受けていた。私の家も年に3、4回、迎えていた。制服姿で短い剣をつって、本当に格好良くスマート。国を守ってくれると、誇らしく思っていた。

 1945年7月、巡洋艦利根が米軍機の爆撃で大打撃を受けるのを間近に見た

 江田島に利根が来た時は、島を守ってくれるとの期待があった。最初はねずみ色だった外装がある日、緑や茶色に塗り替わった。何で保護色に変えなきゃいけないのかなと思った直後、グラマン(米軍機)が猛攻撃をかける。そして、1発も撃ち返すことができない。

 結局、国を守るために帰ってきたのではなく、何とか生き延びようとしてたんですね。命からがらの利根に、私は希望を託していたわけ。船は45度に傾き、島の入り江に死体が流れてきた。住民が三日三晩亡くなった将兵を焼いた。

 8月6日。広島に原爆が投下された

 まだ、戦争に勝つことを夢見ていたけど、事実は正反対。人々がぼろ切れのように死んでいく。子ども心にむなしさや悲しさが募った。自分の目と耳で確かめたこと以外には何も信用しないと心に誓った。

(2010年12月1日朝刊掲載)

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