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連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <5> 第一県女

原爆の「傷」癒やし合う

 生まれ育った江田島を12歳で離れ、県立広島第一高等女学校(第一県女)に進学した。1946年の春だった

 広島で受ける終戦後の教育は、戦前の田舎の堅苦しい一方的なものとは違ってすごく楽しかった。アメリカやヨーロッパの近代史や文学も学び、戦争時代にはとてもうかがいしれない世界を教えてくれた。

 中でも、戦時中は使っちゃいけなかった英語の歌は素晴らしいと感じた。なんで英語を使うアメリカと戦争したんだろうと思った。

 1学年上の生徒は大半が被爆死していた。同級生にも孤児が多かった

 友だちみんなが原爆の傷を負っているけど、子ども同士では語らなかった。自分の苦労を言ってもしょうがないし、何となく惨めな気分になる思いもあった。私も親族を何人も失ったけど言わない。つらいことを表にみせない美学もあった。みんな10代前半の明るい少女として、朗らかに生きているようにみせていた。

 でも、友だち付き合いしているとその傷が分かりますよね。そうすると、そっと励ます。そんなルールが自然にできていたように思う。

 第一県女は14歳の春に有朋高と名前を変え、私は併設中3年生になった。有朋高は1年で皆実高に変わり、試験も何もなく皆実高へ進学しました。

 皆実高は男女共学。女性とは違う男性の哲学や思想、倫理を意識するようになった。女の子は結婚して家庭に入るのが幸せを得る道だったけれど、男性は自分の道に向かってそれぞれが黙々と努力している。新憲法もできたし、女性であっても男性と同じように一生の仕事を持ってやっていけるんじゃないかと考え始めたんですよ。

 東京の大学への進学を志すようになった

 島から広島に来て、視野が大きく開けた。広島よりもっと人が多い東京なら、もっと開けるのだろうと思った。

 あのころが最も野心に燃えていたんでしょうね。東京の大学を受験したけど駄目だった。1年浪人しても不合格。広島で勉強していても実力が上がらないから、1人で東京に移り、予備校に通った。女性が1人で東京に向かうなんて、当時はなかったですよ。父は「あの子が言いだしたら聞かない」と自由にさせてくれた。

(2010年12月4日朝刊掲載)

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