『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <10> 百合子
13年4月2日
小頭症を世界に伝える
1979年3月に全国放送された「聞こえるよ母さんの声が―原爆の子・百合子」は、文化庁芸術祭のテレビドキュメンタリー部門で大賞となった。77年夏から、原爆小頭症患者と親を追い続けた労作だ
毎年8月、テレビは終戦特集をやります。77年の夏、私も切り口を探していたら中国新聞の記事が目に留まりました。原爆小頭症の子と親でつくる「きのこ会」の手記出版のニュースです。岩国市に住む会長の畠中国三さんを、すぐに訪ねました。
国三さんから、(胎内被爆した)小頭症の娘、百合子さんは30歳を超えても自分でトイレに行かれんと聞かされました。百合子さんは顔を向けてくれなくて、ずっと(母の)敬恵さんの陰に隠れていました。まず、終戦の日の15日の前後に5、6分のニュース企画で紹介し、その後も3カ月おきに通いました。
米海兵隊岩国基地の星条旗が見えるところに被爆者が住み、その被爆者(百合子さん)は自分が被爆者であることも分かっていない。静かに見守る父母。ドキュメンタリーとしての全国放送が決まり、取材を続けました。
78年12月、敬恵さんががんで亡くなった。「聞こえるよ―」では、敬恵さんの墓に耳を付ける百合子さんの姿が感動を誘った
「やせ細り衰える敬恵を撮るのはかわいそう」と、一度は国三さんに取材を断られました。だけど、継続をお願いしました。夏まで元気だった敬恵さんの体調の急変、それが原爆の恐ろしさだから。返事もないうちにカメラを持って行きました。
寝ている敬恵さんは小さくなっていてショックでした。取材をためらったが、百合子さんを投げ出さなければならない母親の悲しみ、無念を伝えようと覚悟しました。病床の敬恵さんはアップで撮らず、女性として最大限に美しく撮ることが私たちの誠意でした。
百合子さんは何度も顔を合わせるうちに、笑顔をみせてくれるようになりました。墓参りでは誰も演出しないのに、お母さんの声を聞こうと墓石に耳を付けた。1年も2年も取材を続けるドキュメンタリーでこそ描けた光景でした。
81年に「ベルリン未来賞」を受賞、国際的な評価を得た
原爆がいかに家族を破壊し、その影響が長く続くか。世界に問い、一つの務めを果たしたと感じました。
(2010年12月15日朝刊掲載)