×

連載・特集

『生きて』 ドキュメンタリー作家 磯野恭子さん <13> 経営陣入り

民放では初の女性役員

 1988年6月、山口放送(周南市)の取締役に就任した。民放初の女性役員として注目を浴びた

 私が取締役になるということは、実は私より先に、夫が耳にしていました。野村(幸祐)会長が「どう思うか」と自宅に電話をかけてきたそうです。女性の取締役を世間がどう受け止めるか分からない。女性団体の関係者が会長に意見を聞かれたことも内示前に伝わってきました。

 だから、社長室に呼ばれたときは「一生懸命やります」と即答しました。民放界の女性で私が初めてそういう役職になる。これはヒットだ。放送は男性だけが見ているわけではないですよね。女性の立場で番組づくりや経営をすることはとても大事。会社の名を汚さぬよう、頑張りたいと思いました。

 90年には防府市のマラソン大会のテレビ中継を開始。97年には渡瀬恒彦さん、西田ひかるさん出演のドラマ「卒業写真」を沖家室島(山口県周防大島町)で自社制作した

 マラソン中継は結構大変な仕事でした。山口県は山が多く、電波が飛びにくい。画像が止まるとスポンサーに大変な失礼になる。全国の系列局が満足できる内容も求められる。中継の中で、山口県を宣伝する工夫もしていました。

 ドラマはドキュメンタリーとは真反対の世界でしたね。ドキュメンタリーは取材でシーンを撮りためて作品を仕上げるが、ドラマは脚本に沿って必要なシーンを撮っていく。その脚本は東京のプロダクションがやったが、こちらは過疎が進む日本一長生きする島(当時、50%近い高齢化率)と沖家室を紹介しました。

 大切な仕事がまだある。後継者育成です。作品がローカルで終わっては駄目。予算をやりくりし、ディレクターを東京へ行かせました。

 私の一番の経験はベルリン未来賞の受賞。東京での音入れや英語版制作という世界レベルの仕事の成果でもあった。だから後輩にもプロの技術を仕込んだ。私の人脈を生かし、国内トップレベルの編集マンやディレクターに指導を頼みました。

 99年に常務へ。2001年6月に退任した

 放送という激しい現場でよく生き延びたと思う。女性には秒を争う仕事は大変だろうと言われ続けた。でも、それは生きがいであり、苦労に思わなかった。道を開くプロセスの中で生きた自分が幸せでした。

(2010年12月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ