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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <2> 博多育ち

軍国教育に反抗心募る

 父の北西靍太郎(つるたろう)さん、母の豊子さんは和歌山県の出身。姉と兄の3人きょうだいの末っ子として生まれた

 おやじは、和歌山の小学校訓導から検定を受けて京都二中の教師となり、大阪外国語学校(現大阪大外国語学部)で教えるようになった。僕の生まれは京都ですが、1年余りで大阪へ移り、南海沿線の高石小へ上がった。しかし3年の時に福岡へ転居となりました。

 外語の教育に反発した生徒らのストに同調したおやじは、校長と折り合いが悪くなり、福岡女専(現福岡女子大)へ移ったからです。専門は国文学。中世の「大鏡」や江戸文学を研究していました。

 「大阪外国語大学70年史」によると、満州事変が起きた1931年、校長排斥の同盟休校が起き、初代校長は33年依願退官した。時代は戦時色を強めていく

 福岡での住まいは今の博多区、住吉神社の近く。おふくろは教育ママで、中学への進学者が多い春吉小へ越境通学しました。大阪ではなかった「東方(皇居)遥拝(ようはい)」が朝礼であり、僕はわざとおならをして友達を笑わせた。そういう反抗をしだいにするようになりました。

 福岡中(現福岡高)へ進むと、事の善しあしにかかわらず教師にしょっちゅう殴られた。「天皇陛下のために死ぬことが良い日本人だ」とたたき込まれ、教師の服装も背広から国民服に変わっていく。時代の流れもあったでしょうが、広島文理科大(現広島大)出身の校長になると、軍国教育が一層盛んになりました。

 おやじは、家で非戦論的な話はしても権威主義的。三つ上の兄にはまき割りも風呂たきもさせない。すべて僕の仕事。これでは「次男ではなく下男だ」と反発を覚えた。

 そんなことが積み重なり、権力とか軍隊を忌避する考えになった。福岡第24連隊で1週間起居した教練は、野間宏が著したまさに「真空地帯」の世界。毛布のたたみ方が悪いと、新兵全員が殴られる。しかも上等兵はベッドに寝たまま顔を持ってこさせ、革のスリッパで殴りつける。

 徴兵された兄貴に面会に行くと頬が腫れていた。「おまえみたいな反抗的なやつは、前線に出される前に殺されるぞ」と言われた。軍隊にとられない方法を真剣に考えました。

(2013年4月10日朝刊掲載)

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