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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <3> 医学生

軍隊嫌い高じ窮余の策

 軍隊への入営延期が最も長かった医学生になるため1944年、京都府立医科大へ進んだ

 当時、京都府医大は予科3年、本科4年の計7年。中国戦線が泥沼化しているのに、米国や英国とかを相手にして戦争は7年も続くわけがない、必ず負けると思っていました。

 明確な反戦思想があったわけではないですよ。理不尽極まりない軍隊なんかに行きたくない。両親には気持ちを打ち明けました。兄貴は大阪外語の途中で兵隊にとられた。息子が2人とも死んではたまらない。両親も納得してくれました。

 45年8月15日は朝から大学で防空壕(ごう)を掘っていました。京都も新型爆弾(原爆)の対象になるかも分からんと。それまで防空壕はなかった。ところが正午に天皇の放送があるから集まれとなり、性能の悪いラジオを学生控室で聞いた。ああ、やっと終わったと思いましたね。

 すると、親しかった下級生の朝鮮人学生が歓声を上げ、何人かが殴りかかるので止めに入った。下宿に帰って暗幕を取り払い、大の字になって寝たことを覚えています。

 戦争中は軍隊にとられるやつは気の毒だなと思いながらも、傍観していた。しかし、級友や幼なじみが特攻で死んだと聞き、敗戦後は後ろめたさを覚えました。福岡の家の隣にいた林市造さんの最後の手紙は、「きけ わだつみの声」(初版は49年刊)に入っています。

 林さんは京都帝大から学徒出陣となり特攻隊員として45年4月、沖縄沖で戦死した。23歳だった

 朝鮮・元山から向かう途中、両親が住む博多の空を通るかもしれないと書き残しています。僕は小学校3年の時からよく遊んでいた。一つ下の弟は敗戦後、近所の四つ角で一点を凝視し続けていた。僕はこざかしい知恵を働かせて医学生となり、戦難を免れた。京都にいたから空襲体験もない。休学して福岡にいた時(45年6月)の空襲も佐賀へ買い出しに行っていたので遭っていない。

 (共産党を再建する)徳田球一らが45年10月獄中から釈放され、命懸けで抵抗した人間がいたのを知り、感動しました。戦争への動きには反対しようと思った。京都府医大を辞めるのに迷いはなかったですね。

(2013年4月11日朝刊掲載)

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