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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <6> 今中門下

導かれて研究者の道へ

 1952年、九州大大学院に入り、政治学の泰斗である今中次麿氏の門下生となった

 正月休みに帰省し、今中さんを訪ねたんです。宇部興産でしっくりいかない話をしたら、「君はサラリーマン向きじゃない。研究室に来るならとってやるよ」と。学部時代は学生運動とラグビーで過ごし、不安もあったけれど話に乗りました。

 今の制度と違い、特別研究生は給付が1万円あり、助手の初任給7千円より高い。それで研究生を選び、その年の5月に結婚しました。

 新参の弟子は教授室が研究室でした。今中さんはそのころ家族は東京にいて下宿をしていた。だから朝早く来る。2年先輩の山田浩さん(後に広島大総合科学部教授)は律義にもっと早かったが、僕は朝が弱いので9時ごろのそっと出ていた。それで何か言われるわけではない。言われたのは政治学研究のやり方です。

 自分は政治思想史から政治学に入ったけれど、運動論から入る方法もある。君は英語ができるかねと尋ねられ、英国の政党論を担当することになった。もっとも、これを読めとは言われない。1カ月たつと何をしたかを報告する。中身によっては、今中さんは途中で席を立つ。それが2、3回重なると研究者向きではない、と引導を渡されるわけです。

 もう一つは「3年間は学問に沈潜しなさい」でした。ところが半年後に九大教職組役員に選ばれた。今中さんが「また、君だよ」と、組合書記局から教授室にかかってくる電話の当番のようになった。だからといって破門はされなかった。僕は九大での最後の門下生、いわば末っ子で甘やかされたところがあります。

 広島藩執政のひ孫でもあった今中氏(1893~1980年)は、49年設置された広島大政経学部から請われ、53年に転じる

 僕の組合活動には拍車が掛かり54年5月、日教組中央執行委員を引き受けた。大学部の委員は2人。全国の大学をオルグに回った。それが法学部出身の九大学長からにらまれた。大学院生の身でありながら日教組中執を務めるのはおかしい。多分、今中さんにそう言ったんでしょう。「広大に来る気はないか」と連絡がありました。助手のポストを用意してくれていました。

(2013年4月16日朝刊掲載)

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