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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <10> 分裂

党派の争いに自責の念

 原水禁運動が社会、共産両党の対立から分裂した1963年、米国、英国、ソ連の外相は8月5日、大気圏内外および水中の部分核実験停止条約に調印する

 部分核停の動きに中国は猛烈に反対していた。僕も迷ったけれど、3カ国で核兵器を独占する条約だという中国の主張に理があると思った。一方、広島県原水協代表委員の森滝市郎さんは、米ソが同じテーブルに着いた全面禁止への第一歩と評価した。総評系の委員たちは、評価を運動の原則にしろとまで求めた。

 ただ、県原水協としては社共の中央レベルの対立を持ち込まず統一を守ろうとした。63年の第9回世界大会の基調報告は、森滝さんと佐久間澄さんが文案を協議して作った。

 最大の争点だった「いかなる国の核実験にも反対」は、「どこの国のどんな核実験」と苦心の表現となったが、部分核停を評価する文言が入った。僕は不満を覚えたが、開会総会の時間が迫り、「広島県原水協の提案」という形なので同意した。

 (8月5日午後8時すぎ)森滝さんが原爆慰霊碑の前で基調報告をすると、ぞろぞろ退場する者が出た。総評指導部が県原水協に通告なしに大会ボイコットを決めたんです。参加者の動員力では共産党にかなわない。自分たちの主張が大会で覆されることを恐れたんでしょう。

 県原水協は統一を願って9回大会を引き受けたが、こういう事態になった以上、運営を日本原水協に返上するしかない。6日未明に決め、事実上、共産党系の大会となりました。党中央の連中は祝勝気分でいたが、一定の距離を置いていた僕は「分裂を回避するべきだ」との考えから大会決議案を書いたんです。

 広島大の今堀誠二教授は、北西事務局次長の決議案は大幅に変更され、9回大会の決議は「反帝反米の一色」と表した(74年刊「原水爆禁止運動」収録)

 僕は「未解決の問題を棚上げせず、辛抱強く話し合いを」と書き終えて、帰宅すると熱が高い。女房が医者を呼び、閉会総会に出られなかった。そうしたら僕の決議案が書き直されていた。市民不在の運動に陥っている、いかんなと感じながら、僕も激しい論争をやった。分裂に加担した。今もじくじたる自責の念があります。

(2013年4月20日朝刊掲載)

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