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連載・特集

『生きて』 政治学者 北西允さん <11> 広大紛争

学生委員引き受け団交

 1960年代末、全共闘運動が広がり、「広島大学学園問題全学共闘会議」は69年1月に結成される。学生委員として対策に当たった

 高度成長で社会全体の管理化が進み、異議申し立てが底流にはありました。ただ、広大紛争の場合は、特定のセクトが主導権を握り、いわゆるノンポリ学生の共感も得て一気にエスカレートした面が強かった。

 もっとも広大は、学生の自治とかを認めない態度できていた。広大全共闘が出した「8項目要求」の中には、大学が運営する購買会に代わって生協を設ける、大学会館を学生の自主運営にするとあった。他の大学は既にやっていたことです。

 ところが(学長や各学部長らの)評議会はもたもたして決められない。学生委員だった僕は「基本的にのめばいい」と説得にかかったが、文部省からきていた学生部長は「絶対に譲れない」の一点張りでした。

 学生委員会ができたのは川村智治郎学長の時。68年春の卒業式と入学式が分散となり、各学部から論客というか口の立つやつ2人を選び、執行権もある委員会をつくった。

 僕は政経学部の教授になったばかりで、もう一人は経済系の教授。委員長に就いた彼は、僕が生意気だと昇任のたびにバツの票を投じていたが、民青と中核派の主張の違いすら知らない。「この際協力してほしい」と頭を下げるので引き受けた。僕のゼミには各セクトの学生がいたし、社会主義研究会の顧問もしていた。顧問がいないと正式なサークルと認めない。こんなところにも大学の古くさい体質がありました。

 だからセクトの学生に敵対感情はなかったが、全共闘運動は孤立していると思った。68年のフランス「五月革命」は労働者と連帯して社会運動にまで発展した。大学の中だけでやっているようでは駄目だ。そんなことを言っていましたね。

 学生との団交は、大学側が話すとマイクを切ってしゃべらせない。要するに一方的なつるし上げ。川村学長は耐えられず辞任します(69年2月18日)。教養部から封鎖(同24日)が始まり、要求は「大学解体」までエスカレートしていく。この非常事態を乗り切れる人間で解決するしかないと、僕が(医学部教授の)飯島宗一さんの名前を挙げ、説得に行くことになりました。

(2013年4月23日朝刊掲載)

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