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連載・特集

陸奥爆沈70年 <下> 歴史の証人

記憶継承 時間との闘い

生存者や世話人会 高齢化

 爆沈した陸奥で生き残ったのは約350人。1等工作兵として乗り組んでいた布施輝男さん(89)=宮城県塩釜市=は19歳だった。1943年6月8日正午すぎ。「ドーン」。小雨が降り、霧が辺りを覆う中、ごう音が響いた。

 艦首にいた布施さんは吹き飛ばされ、たたきつけられた。巨艦が真っ二つに折れる中、ブイにつかまり水面を漂っているところを救助船に助けられた。

 犠牲者は三好輝彦艦長以下1121人。紺ぺきの海は重油で色が黒く濁り、仲間は苦しみながら命を落としていった。布施さんは「ぼうぜんと見つめることしかできなかった」と今も悔やむ。

 生き残った者もその後、最前線に送られた。布施さんは激戦地ラバウル(現パプアニューギニア)へ。「最終的に生き残ったのは60人ほど」と、帰国後に聞いたという。

 忘れがたい、重い記憶を抱えて戦後を生きてきたが、6年前に初めてその体験を講演した。布施さんは「仲間の無念を若い人たちに知ってほしい。陸奥は昔話ではありません」と漏らす。

 岩国市の南東25キロにある柱島。その南端に遺骨を納めた「戦艦陸奥英霊之墓」がひっそりと立つ。柱島漁協は、掃除や花を絶やさない。

 国民学校の4年生だった冨野嘉明さん(81)は陸奥の爆沈時、地震のような揺れを感じて跳び上がった。「海は真っ黒。浜には流れ着いた遺体が積まれていた」と記憶をたどる。小説「陸奥爆沈」の作家吉村昭が柱島を訪ねたのは69年。証言した島民の多くはすでに亡い。

 沈没海域南に位置する周防大島町伊保田の慰霊碑は住民が63年に建てた。近くの松林陽(きよし)さん(82)は16人で発足した「陸奥世話人会」の一人。「訳も分からず、あれだけの人がいっぺんに亡くなった。何かできないかと考えた」と当時の思いを振り返る。

 慰霊碑近くの陸奥記念館の入館者は96年の7万7543人をピークに、昨年は1万6638人にまで減った。命日に営まれる慰霊祭に、年をとった生存者が出席することもなかなか難しくなり、ことしは1人だけが参列する見込みという。

 それでも松林さんは「犠牲者のことを心に刻み、悲惨な歴史は語り継ぐ必要がある」。長い年月を経て発足時の会員は2人だけになったが、会の規約第1条にうたわれる「生ある限り碑を守る」思いは変わらないという。(久行大輝)

(2013年6月8日朝刊掲載)

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