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連載・特集

米国のヒロシマ記者 <上> 平和運動家・ジャーナリスト ダイアナ・ルースさん

ダイアナ・ルースさん(65)=米オハイオ州オービリン市

生涯ささげる姿に共鳴

核と平和 問い掛け続ける

 原爆被害の実態を核超大国の米国に伝えるため、広島国際文化財団が、米国人記者らを被爆地に招いた「米地方紙記者広島・長崎招請計画(アキバ・プロジェクト)」。あれから四半世紀余り。地元メディアを通じて取材の成果をそれぞれリポートした後も、元記者たちは平和実現に向け、報道や教育の最前線で活動を続けている。3人の「ヒロシマ記者」に思いを聞いた。(ニューヨーク山本慶一朗)

 ―プロジェクト参加はどんな経験でしたか。

 人生で最も意味のある出来事だった。被爆者の個々の話を聞き、大きなショックを受けた。それは私の一部になり、生涯をかけて取り組むべきテーマだと思った。被爆者に対する責任感が芽生え、以後、30年以上、被爆者について新聞や本で書き、ラジオで話してきた。

 被爆者が全生涯を平和にささげ、取り組む姿に大きな影響を受けた。米国では、ほとんどの人が全生涯を何かにささげたりしない。被爆者の存在によって、私にも何かできると感じたし、やってみようと思った。被爆者の友人を持っていることをとても光栄に思う。

 ―米国におけるヒロシマのイメージはどう変わりましたか。

 1980年代はまだ第2次世界大戦の記憶が強く残り、原爆は投下されて当然と思われていた。この30年で人々の対日感情も良くなり、将来に希望を持っている。以前はヒロシマを理解しようという人はほとんどいなかったが、今は「教えて」といわれる。核兵器の恐ろしさを理解したからでしょう。

 ―平和活動を続ける中で、どんな点に変化を感じますか。

 80年代、ニューヨークやワシントンで何百万もの人々とともに抗議活動をしてレーガン大統領(当時)に圧力をかけ、旧ソ連(ロシア)との核開発競争をやめさせることができた。

 核兵器や核戦争について、問題提起を続けることが重要だ。今はワシントンで起きた出来事はすぐに報じられるが、かつては放射能の影響や、核実験が実施されたことさえ誰も知らなかった。多くの人々と活動して問題を白日の下にさらし、広く社会に問えるようになった。

 ―2001年9月11日の米中枢同時テロの影響はありましたか。

 9・11は米社会を根本から変えた。米国人は自分たちがナンバーワンで、誰にも傷つけられないと思っていたが、普通の国だと理解したのは重要な変化だ。戦争を始める代わりに、より協力的な方法や核兵器に頼らない方法を探る方が世界にも米国にも安全だと。変化はとてもゆっくりだが…。

 ―身近な人にも変化がありましたか。

 04年、次男のケビンが16歳の時、被爆者取材のため広島に一緒に行った。とても大きな影響を受けた彼は、高校で核兵器やヒロシマについて皆に詳しく紹介した。彼は今、ニューヨークでジャーナリストをしている。

 ―広島に何度も足を運んでいますが、どんな変化を感じますか。

 小さかった声が、とても強いものに変化した。ただ、被爆者の多くは亡くなるか高齢になられた。次世代が被爆者同様、平和のために行動することを願う。彼らがきっかけとなり、世界中の若者がヒロシマについて知り、話し合うことが平和の手助けになる。

 ―今後の活動はどう続けていきますか。

 今も時折、大学や高校で講義をしている。教師たちは、ヒロシマを伝えたくても知識も情報もない。このため、新しい本「Teaching Hiroshima」を来年にも出版するつもり。オンライン書籍化も考えている。

 1948年、オハイオ州生まれ。ラジオプロデューサーだった80年にアキバ・プロジェクトに参加。「核時代の影」と題した10本の番組が全米で放送された。81年に米国で原爆劇「ヒロシマの怨念(おんねん)」を創作した。

米地方紙記者広島・長崎招請計画
 原爆被害の実態とともに、核兵器廃絶と世界平和を願う被爆地の心を米国民に伝えてもらおうと、広島国際文化財団が1979年から88年まで、米国の地方紙記者ら34人を広島・長崎両市に招いた事業。「アキバ・プロジェクト」と呼ばれた。当時、米タフツ大准教授だった秋葉忠利前広島市長が提唱したことに由来する。

(2013年6月14日朝刊掲載)

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