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連載・特集

『生きて』 洋画家 入野忠芳さん <2> 事故と被爆

戦時下の災難 左手失う

 広島市東区生まれ。父は障子や欄間などを作る建具職人だった

 器用なところは受け継いだと思う。6歳上の兄は私が生まれる少し前、疫痢で亡くなった。姉1人、妹2人と育ちました。

 5歳の時、路面電車に巻き込まれ、左手を切断する

 1945年2月6日だったそうです。被爆のちょうど半年前。

 伯父が戦地から帰ってきて、段原(広島市南区)まで会いに行くことになった。母に手を引かれ、八丁堀で電車に乗り込もうとした瞬間、がくん、と電車が動きだし、電停と車両の隙間に落ちたんです。

 すぱっと切れたのではなく、つぶれた感じだったらしい。今なら切り落とさずに済んだかもしれないが、当時の医療だからね。肘先10センチの所で切断した。どこまで切るか医者も迷ったらしいが、普段は寡黙な父が「ここで切ってくれ」と。私は気絶しているから、後で聞いた話です。

 長い間、運転士が気に病んでいないか、気掛かりでした。「私は大丈夫」と伝えたいとも思ったが、自分で問い合わせるわけにもね。

 最近になって、当時は運転士が兵隊に取られて不足し、15、16歳の女学生が運転していたと知った。事故の時の運転士がそうだったかは確かでないけど、自分では「戦時災害」と思っています。

 8月6日、自宅で被爆する

 仏間で朝ご飯を食べていた時でした。ゆでた小さなジャガイモをね。母と赤ん坊の妹が一緒だった。「お母ちゃん、もう1個」とせがんで「お昼まで我慢」と言われた。

 と、開け放していた裏戸の方からピカッときて、すべてが真っ白に。気がつくと、玄関前の路上に吹き飛ばされていた。周りの家は全部ぺちゃんこ。とにかく逃げなくちゃ、と近くの牛田山へ向かった。

 山道脇に座り込み、街が焼けるのを見ていました。見ながら思ったのは、「あのジャガイモ、食っときゃよかった」。この体験は後に絵本「もえたじゃがいも」(汐文社)に描いています。

 母は家の下敷きになったが、近所の人が救い出してくれた。妹も仮死状態から息を吹き返して。家族は皆、辛うじて生き延びた。

 同じ年に遭った事故と原爆は、セットで記憶に刻まれています。

(2013年6月14日朝刊掲載)

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