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連載・特集

『生きて』 洋画家 入野忠芳さん <5> 大学時代

自由美術展で頭角現す

 美大を受けると言っても、そうそう親は許してくれません。それでも、母方の祖父が応援に回ってくれて、最後には父が「よし」と。おやじがびしっと決断したのは、僕の左手の切断手術の時と、この時ですね。自宅周りの土地を売って、お金をつくってくれた。

 1958年、武蔵野美術学校(現武蔵野美術大)の西洋画科に入学

 教員に井上長三郎、麻生三郎、森芳雄、藤井令太郎…。野心的な現役作家が集まっている印象でした。僕自身、本当に生き生きとした。最初の住まいは東京・中野の3畳間。画材を広げると横になる隙間もなく、押し入れで寝た。やがて、大学に近い6畳間に引っ越しました。

 社会は安保闘争で騒然としてきた。60年安保だね。僕もデモに行った。街頭演説に共感したり、反発したりしながら自分を見詰め直し、制作も勢いづいた。

 大学1年の秋、自由美術展に初出品で入選する

 ひしめく椅子の図に、肩を寄せ合う人間を象徴させた。戦後のバラック街のようにも見える、かなりヒロシマを意識した絵です。初入選のお祝いのつもりか、森芳雄先生が「図に乗るなよ」と言ってくれた。

 自由美術展には卒業まで4回連続で出しました。デモの群衆や、木の根っこを描いた。のたうつ根っこには被爆者のイメージを重ねた。

 当時、自由美術協会の中心にいたのが井上長三郎先生でした。教室に来るなり、「君たち、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)は知っとるか」「安保とは何ぞや」とぶつ。芸術と社会の問題をじかに突き付け、根本を考えさせる人でした。

 井上先生は広島生まれの靉光(あいみつ)(洋画家、1907~46年)と親しかった。僕も同じ広島出身だから、「靉光をどう思う」なんて話し掛けてくれ、目をかけてくれた。そして、「卒業したら(自由美術協会の)会員にする」と言うんです。

 でも、それには正直困った。卒業する頃にはもう、会派展に批判的になっていたんです。自由美術がどうというより、芸術は個人でやるものだ、という思い。卒業してからは出さなくなっちゃった。

(2013年6月19日朝刊掲載)

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