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連載・特集

『生きて』 洋画家 入野忠芳さん <7> 再出発

交友励みに画境を追究

 帰郷後、広島市内のあちこちで絵画教室を開いていきました。幼稚園の一室を借り、放課後、希望する子に残ってもらって教える。高校でも非常勤で美術を教えた。

 学生時代の絵を乗り越えねばならない時期でもあった。東京で会社を辞めてから、ペン画をかなり描いたんです。紙代とインク代で済むからだが、非常に濃密な絵。広島でもその作風を引き継いで、油絵を緻密にしていった。

 1966年、広島市東区で「入野美術研究所」を開設する

 教室とアトリエを兼ねた拠点。実家の持っていた土地に建てさせてもらいました。美大の受験生がたくさん来てくれた。生徒とも保護者とも、関係は濃密でした。進学後も大学が休みに入ると、どっと訪ねてくる。70年代には、学生運動の活動家やアングラ演劇の俳優も集まってきた。

 地元の画家とも交友を深めた

 たいてい飲み屋で知り合った。中区立町の当時「なめくじ横丁」と呼ばれた辺り、後に画廊になった酒場「梟(ふくろう)」とかでね。先輩格の画家で灰谷正夫、福井芳郎、浜崎左髪子(さはつし)、船田玉樹(ぎょくじゅ)…。激しく議論もしたし、愚痴の聞き役もした。

 少し年下になるが、殿敷侃(ただし)は思い出深い。幼い時に被爆した共通点もあるしね。彼は酒を飲めないくせに、飲もう、と言って研究所へやってくる。

 殿敷は広島市出身の美術家。細密画から現代アートに転じた

 頑固でストイック。ペンの点描をやっていた頃、僕が「一つの点が次の点を呼ぶような、生きた点を打てよ」と助言すると、「いや、点は真上から一つ一つ打たんといけんのです」と譲らない。1センチ四方を描くのにも時間をかけてね。ドイツに行って作風ががらっと変わった。50歳で亡くなったのは早過ぎた。

 自身の画境の追究も続く

 デカルコマニーを応用するようになった。まだ乾いていない絵の具の上を紙などで覆い、剝がすことで偶然の表情を生む技法。僕のやり方は、生乾きの絵の具を新聞紙で拭き取るようにして描く。体ごと絵の中に入り、偶然をコントロールしながら描くイメージです。

 この頃は山登りにも夢中で、体全体で描くこと、呼吸のリズムを表現することに関心が向いていた。

(2013年6月22日朝刊掲載)

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