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連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <4> 親を亡くして

懸命に耕作 妹2人養う

兼業で働き自宅を新築

 夏が来て、裏庭のトマトが赤く色づき始めた。「孫に食べさせてやろうと思うて」。広島市安佐南区川内2丁目の門前サヨコさん(81)は丁寧にもぎ取る。「自分より家族。いつもそれを思ってきた人」。近くに住む長女の姫本澄江さん(62)は母の背を見つめた。

 門前さんの父留一さんは42歳だった1943年、結核で他界した。母ナツミさんは45年8月6日、川内村国民義勇隊として爆心地に近い中島新町(現中島町)の建物疎開に出ていて被爆死した。40歳だった。13歳の門前さんと、10歳、7歳の2人の妹は孤児になった。

 あの朝。爆心地から10キロ余り離れた川内にも、閃光(せんこう)が走った。門前さんは川内国民学校の校庭で、竹やり訓練の最中だった。「学校に爆弾が落ちたか思うて、地面に伏せました」。爆風で自宅も傾いた。

 翌7日、帰らぬ母を捜して爆心地に入った。でも見つからなかった。近くに住む伯母も原爆で夫を奪われ、子ども5人を抱えていた。誰にも頼れない。「妹2人を食わしていくため、泣いてはおられんかった」

 生きるすべは、両親が残した3反(約0・3ヘクタール)足らずの田畑だけ。大人たちの見よう見まねで、広島菜やゴボウを育てた。「これが妹の学費になる。そう思うて必死に土を耕しました」

 思春期の少女は突如、大人になることを求められた。それも親として。家族を養う「父」の役割と、しつけをし、時に優しく接する「母」の顔。

 「妹たちが恥ずかしい思いをしないように」と、亡き母の浴衣をほどいて服を仕立てた。自らは進学せず、妹たちを和裁学校に通わせた。

 広島原爆で家族を亡くした孤児は4千人とも、6500人ともいわれる。路上暮らしを強いられた子どももいた。「私らは田畑に命をつないでもろうた」と門前さん。気に掛けてくれる近所の人もいて「風呂をよばれることもあった」と振り返る。

 18歳で見合いをし、結婚。1男1女に恵まれた。しかし、家庭を顧みない夫とは折り合いが悪かった。4年ほどで結婚生活は破綻した。

 「それからは、わが子のために働いた」。農作業の傍ら、男性に交じって工事現場でも働いた。みそ加工場や農協にも勤めた。こつこつと貯金し、一家の墓を新しくして自宅も新築した。「今思えば、私もようやりました」

 今は孫が6人。ひ孫が13人。週末に遊びに来る。姫本さんは毎夕、晩ご飯を作りに寄る。「よう頑張ってくれたから、今の私たちがあるんよね」と語り掛けると、「あんな苦労、今の子らはせんでいい。いい時代になった」と門前さん。そして、こうも願う。「そのありがたさを知っておいてほしい」と。(田中美千子)

(2013年7月10日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第1部 「あの日」から <5> つなぐ記憶

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