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連載・特集

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <4> 二つの祖国

日米の戦火 先祖を翻弄

古里の苦境 物資で援助

 仏間のかもいに、遺影が8枚並ぶ。1枚は制服姿の少女。「うちの家は、あの戦争で並大抵ではない苦労をした」。広島市安佐南区川内6丁目の会社員土井繁則さん(49)は、聞き知ることをつなぎ合わせる。戦火を交えた日米両国のはざまで揺れた先祖。そして原爆は伯母を奪った。

 土井さんの父繁信さん(2007年に78歳で死去)は、米カリフォルニア州フレズノで生まれた日系2世。両親は広島県川内村(現安佐南区)から移民として米国に渡った。

 繁信さんは5歳だった1934年、「教育だけは日本で受けさせたい」との両親の希望で、親類に連れられて3歳上の姉信子さんとともに来日。川内村に住む祖父母と暮らし始めた。5歳下の妹静子さんも後に続いた。

 41年、日米開戦。きょうだい3人に過酷な運命が待ち受けていた。

 信子さんは45年8月6日、原爆で亡くなった。川内村国民義勇隊員として爆心地近くで建物疎開作業に出ていた。18歳だった。

 「姉は日本国民の犠牲として亡くなりました。恐怖と苦悶(くもん)の内(うち)に死んでいった事を思いますと非常にかわいそうです」。52年、川内村が原爆死没者の遺族を対象に配った調査票に、繁信さんはつづった。

 繁信さんは旧制中学を中退し、田畑を懸命に耕した。中学を出た後、洋裁の仕事で家計を助けた静子さんは55年、米国に残る両親の勧めで再び海を渡った。川内の家を守ろうと決めた繁信さんと離れ離れになった。

 静子さんは日系人と結婚し、吉岡姓に。79歳になる今もフレズノに暮らす。「広島はつらい思い出ばかり。でも、米国の家族にも苦労がありました」

 現地のブドウ農園に雇われ、こつこつとお金をためた両親。しかし戦時中に全て没収され、強制収容所に入れられた。当時、約12万人もの日系人が同様の困苦を強いられた。「戦争がいけないんです」と静子さん。

 終戦から3年後の48年、川内村に食糧や衣服など大量の支援物資が米国から届いた。古里の苦境を思った広島県出身者たちからだった。寺の境内に物資を山積みにし、記念撮影する義勇隊の遺族の写真が残る。

 土井さんが小学校の頃、静子さんたち米国の親類が一度だけ、訪ねてきたことがあった。新婚旅行で米国を訪れた際にも、静子さんたちと会った。

 ただ、移民、戦争、被爆と歴史の波に翻弄(ほんろう)された一家の過去を詳しく聞いたことはない。「父が多くを語らなかったのも、きっと思い出したくなかったから」と思う。「できればもう一度、米国を訪ね、静子おばさんに父や信子おばさんの話を聞きたい」。年を重ね、土井さんは考え始めた。(田中美千子)

(2013年7月28日朝刊掲載)

『ピカの村』 川内に生きて 第2部 支え合って <5> 慰霊碑

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