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連載・特集

月曜学芸館 大井健地 被爆者 早志百合子

生き地獄 中3でつづる

 8月6日が過ぎた。9日も過ぎ、15日も終わった。今、幼い子どもから「戦争はもうないの」と問われたら、私たちはどう答えられるのだろうか。

 被爆68年の今年の夏は炎暑続きだった。ヒロシマの街には、言うに言われぬ思いで今も夾竹桃(きょうちくとう)が咲くこの季節を迎える人たちがいる。被爆者の平均年齢は78歳を超えた。

 この夏、広島市内であった土田ヒロミ氏の「『フクシマ』in広島」という写真展の会場で僕は「原爆の子きょう竹会」の会員に出会い、同会編の「改訂版『原爆の子』その後―『原爆の子』執筆者の半生記」(本の泉社、2013年)を読んだ。

 同会は消息の分かった被爆者約50人で1972年に発足した親睦団体。少年期の被爆と手記執筆という共通体験が会員同士を結び付け、心を開くよりどころになっている。

 会長の早志百合子さん(36年生まれ)の「あれから半世紀を生きて」を読む。早志さんは段原小3年のとき、現在の南区比治山近くで被爆。炎熱の中、防空壕(ごう)に逃げる途中に目にした生き地獄のような光景を、中学3年のときつづった。その文章は、「『原爆の子』その後」の原点ともいえる長田新編「原爆の子」(岩波書店、51年)に収録された。「今となってみるとあれを書いておいてよかったとつくづく思っています」と彼女は振り返る。

 「世話好きのバスガイド」。早志さんを紹介する新聞記事にはこんな見出しが付いていた(91年7月19日付朝日新聞)。広島市内の定期観光バスガイドだった彼女は「原爆を許すまじ」を歌うのも日々の仕事だった。だが、「『原爆の子』その後」には「二小節位唄(うた)うのが精いっぱいで、胸が詰まって唄えなくなる」とつづられている。

 「ふるさとの街焼かれ 身寄りの骨埋めし焼け土に」

 早志さんの身に即してリフレインすれば僕の胸も熱くなる。「当時は一ガイドとして冷静に説明する事ができませんでした」。そんな苦痛から2年余りで辞職したという。

 被爆後20年以上も過ぎて母親に原爆症が現れ、7回もの大手術の後亡くなる。次いで自分の乳がんと心臓発作。病を乗り越えた今、健康体操のボランティア指導をライフワークとしている。

 ―被爆した少年少女がその後どう生きたか、今の思いはどうかをつづることで、後世に戦争の悲惨さ、愚かさを伝える目的でこの本は編集された。(美術評論家=広島市、絵・題字も)

(2013年8月19日朝刊掲載)

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