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連載・特集

米の日系2世 波乱の半生 100歳の松本さん 次女 ドキュメンタリー制作

 父親が廿日市市地御前出身の日系2世で、100歳の松本博さん=米国。文化や習慣の異なる日米両国を行き来した生い立ちや、第2次世界大戦で日本軍と戦い、弟やいとこと捕虜収容所で出会った波乱の半生を、次女の松本カレンさん(59)=同=が英語のドキュメンタリー(28分)にまとめた。(二井理江)

 タイトルは「Honor and Sacrifice(名誉と犠牲)」。博さんの父で、戦前、米国で写真撮影を学び、広島に戻って写真館を営んでいた若次さんがカリフォルニアや広島で撮った写真や、博さんのインタビューなどで構成している。

 1913年にロサンゼルス郊外で生まれた博さんは、21年に広島に戻った。27年には若次さんら家族も帰国。しかし博さんは日本の習慣になじめず、母テエさんから米国に戻るよう言われ、30年、おじさんを頼って1人で米国へ帰った。

 開戦とともに日系人の強制収容所に入れられた博さん。米軍の情報部が、日本語が堪能な人を捜しに来たため、収容所を出たい一心で志願した。陸軍情報部でゲリラ部隊に入隊。「メリル襲撃隊」として43年、ミャンマー(旧ビルマ)へ行き、危機的な状況の下で日本軍の電話を盗聴したり、滑らかな日本語で日本軍をかく乱したりした。

 広島への原爆投下を知ったのは、ミャンマーから戻り、日本人捕虜の尋問のため中国に赴任していた時。紙屋町交差点(現広島市中区)のそばで写真館を営んでいた父ら家族は全滅したと思っていた。しかし捕虜になって収容所にいた、いとこに上海で偶然再会。家族は、廿日市に疎開していて無事だったと聞いた。やはり上海の収容所にいた弟の勲さんにも会え、数時間、家族の話をした。

 カレンさんが、父のミャンマーでの働きを知ったのは83年。30歳の時、大学院の教授からメリル襲撃隊に関する本を渡された。軍情報部の業務が50年間機密扱いになっていたこともあり、詳細は、ドキュメンタリーの制作を始めた2008年になって知った、という。

 さらに、若次さんの写真が廿日市市の実家で大量に見つかり、ドキュメンタリー制作を後押しした。「日系米国人が第2次世界大戦で果たした役割を広く知ってもらうとともに、多くの個人の犠牲の上に成り立つ戦争への反対の意を込めた」と話す。

 作品は、ワシントン州ポートタウンゼン市で9月にあった映画祭でショートドキュメンタリー部門の審査員最優秀賞を受賞。今は米国各地で上映されている。

 「特に子どもたちに見てもらいたい。日本語の字幕も付けられれば」とカレンさん。博さんは「戦時中、米軍情報部で、日系2世がどんな役割を担ったかを知ってほしい。私は生き延びるため、やらねばならなかったのだ」という。

 DVDは、原爆資料館(広島市中区)の情報資料室で見ることができる。

(2013年11月4日朝刊掲載)

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