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連載・特集

国際シンポジウム 基調講演(2013年12月7日)

「未来への記憶――新たな地平を求めて」

                                早川敦子

 戦後世代の私が、広島という、人類の過酷で同時に大切な経験をその遺産として負っている場所から教えられたことは言葉では語りつくせないほど大きなものでした。その大きさを思う時、私に語れることは、ほんの小さなことしかないのだろうと思います。ただ、翻訳者として、過去の人の思い、願い、そしてときに苦しみや無念さを託されて国境を超えて伝えなければならない役割を負う者として、そしてまた大学で次世代の若い人たちに向けて語り続けることを仕事とする一人として、今回のシンポジウムに参加させていただきました。

 見えない手で背中を押してくれたのは、私が英訳を続けてきた原爆詩を書き記した被爆者の人たち――たとえば、検閲にひるむことなく人間のあるべき姿を自身の言葉で紡ぎ続けられた栗原貞子さんや、小さな存在でせいいっぱい現実を負った子供たち――残念ながら、この人たちはもうこの世にはいません。そしてまた、もう一人、この広島にも先月訪れたホロコースト第二世代のエヴァ・ホフマンという一人の作家も、私の背中を押してくれたのでした。今日は、このエヴァ・ホフマンが翻訳者の私に託してくれた言葉から、話し始めたいと思います。

 「未来への記憶」これが、今日のタイトルですが、私の心の中にはもう一つ別のタイトルがありました。「記憶を和解のために」です。実はこのタイトルは、ご存知の方がおられるかもしれませんが、エヴァ・ホフマンが9.11のあとに、ホロコーストの第二世代として、どうしても語らねばならないことがあると筆をとり、英語の原題ではAfter Such Knowledgeというタイトルで2005年に世に出したホロコーストをめぐる思索です。

 彼女のことを少しお話しておくと、彼女は1945年にポーランドのクラコフにユダヤ人の両親のもとに生れます。彼女の両親は、ホロコーストが吹き荒れる時代の嵐の中で、ポーランド辺境の田舎の農家で匿(かくま)われ、さらに多くの人に助けられながら生き延びました。ところが、戦後の反ユダヤ主義に身の危険を感じ、エヴァが13歳のときに、一家はカナダに移住します。ここで、彼女は永遠に祖国と、母語を失います。その喪失の体験は、彼女に深い傷となって刻印され、その呪縛から解き放たれたのは、長じてジャーナリストになったエヴァが、親のホロコースト体験を引き受けて第二世代の自伝と言う形で言語化したときでした。

 そこからエヴァの作家としての人生が始まるのですが、重要なことは、彼女の意識の中には、たえず「第二世代」という、第一世代の直接体験者とは異なるトラウマがあるということです。第二世代は、親の苦しみを直近で観ながら、それをどう受け止めてよいのかわからないまま子ども時代を過ごし、同時に封印された沈黙を次世代に語らねばならないという使命を痛いほど感じ取って、ときに負い切れない重圧に苦しみながら、自分自身の人生を、過去の呪縛から解き放っていかねばならなかったのです。このような第二世代の苦しみがあったことを、私はエヴァの言葉を読むことで、初めて知らされました。20世紀という戦争の世紀が遺した大きな傷跡は、実は当事者だけではなくて、次世代にも、さらに文化そのものにも深く刻印されていることを知ったのです。

 エヴァが敢えて“After Such Knowledge”、つまり、直訳すると「そのような出来事のあとで」或いは「それを知ったあとで」というタイトルのもとで世界に伝えたかったことは、一つには、この「知」が、単に歴史に刻み込まれた事実という意味だけではなく、「知恵」に変わっていくものだということです。そしてもう一つはafter、つまり「あと」という言葉が示しているように、「後の時代に生きる者」が、実は過去の出来事を「知恵」に変えていく重要な役割を負っているということでした。過去の事実、すでに起こってしまった事実そのものの意味は、実は、そのあとに来る者が見つけるのだと言うことができるかもしれません。たとえば、アウシュヴィッツの強制収容所の中で強制労働を余儀なくされていた人たちは、なぜ、自分たちがそのような境遇に置かれなければならなかったかを明確に意識していたでしょうか?なぜ600万人もの人たちが命を奪われたのか、ホロコーストが起きたのか、その背景が詳らかになったのは、戦後にさまざまの証言や資料を通して世界がその怖ろしい出来事を認識したからなのです。

 広島の原爆の烈火に焼かれた人たち、その無念の思いは、あとに来る者たちが思いを向けることによってこそ、より一層意味をもつのではないでしょうか。歴史の負の遺産が意味をもつとしたら、それは、事実そのものにしか語れない重みに加え、それを人間の「知」の中にとりこんでいく、次の、さらにその次の世代の意志が意味をもたらしていくのです。「あとから来る者たち」の存在に、過去とその記憶はかかっているといえるかも知れません。

 エヴァ・ホフマンの書物を通して私はそのことを学びました。そして、私はエヴァとの対話を通して、日本語に翻訳するにはほぼ不可能と思われたタイトルを、「記憶を和解のために」というタイトルにしたのでした。日本語で「和解」というと、どこか表層的なニュアンスがあって、まやかしのような気がしてしまうのですが、ここで私は「和解」と言う言葉に、もっと深い意味を籠(こ)めたいのです。和解というのは、目標として達成されるものではなくて、むしろ他者と自己の関係を模索し続ける意志と、継続性の中にあるのではないかと思います。つまり、異なる他者との葛藤、あるいは納得できない不条理をどう受け入れるか、悩み続ける行為そのものが、すでに他者を自身の中に認識する行為として何かを変化させているはずなのです。解けない糸をほぐすことが叶わないとしても、その糸を手の中に掬(すく)いとって、内面の葛藤やせめぎ合いを続ける行為そのものの中に、人間らしい営みがあると言いたいのです。その営みは、和解の一つのかたちではないでしょうか。受け入れようとする自分自身との和解、あるいは過去と現在の和解といえるかもしれません。

 一方で、ホロコーストの加害者と被害者の対面や、自身のトラウマと向き合うためのセラピー、そしてまた次元を換えれば数々のホロコースト記念館や史料館そのものが、実は、今言ったような意味あいでの和解の試みであることをエヴァは著書の中で実に詳細にたどっています。そしてそこに何が必要であるのか、それはきわめて倫理的な問いになるのかもしれませんが、実は、それは「人間の意志」なのです。他者を拒絶するのではなく、自分の世界の中に招き入れるためには、自身も変わらねばならない。そのせめぎ合いは、したがって、他者とのせめぎ合いだけでなく、自分自身とのせめぎ合いだと言えるでしょう。その厳しい経験の中から紡ぎ出された言葉を受けとめることが、翻訳者である私に課せられた仕事でした。

 歴史の経過の中で、体験を語る者がいなくなっていくことで事実そのものが風化していくのではないか、その焦燥感にも似た意識が、日本の中にもあると思います。でも、こう考えてみてはどうでしょう、エヴァ・ホフマンが自らの第二世代の立ち位置から深く思索したように、時間の経過ゆえに、距離ゆえに、直接的な経験とはまた異なるかたちで、さきほどお話しした「知」を導いてゆくことができる、というように。そのような思索、あるいは、和解への意志は、現在に働きかける過去を通して新たな「記憶」の地平を拓(ひら)いているのではないでしょうか。過去を受けとめる者、受けとめようとする現在の人間の意志が、記憶を紡ぐというようにも言えるでしょう。

 時間は、過去を消去するものではありません。時間はまた、新しい地平を拓くことによって、忘却から記憶を救い出し、新しい関係性を構築していくことができます。それは、出来事との和解ではなく、過去と現在の和解ではないでしょうか。そしてそこから、未来へと歩みが続くのです。ホロコースト文学を研究する人間として、私はそれが決して抽象的な理論だけではないということを実感しています。

 皆さんもご存じのヴィクトール・フランクルはどうでしょう?精神科医として、きわめて客観的な視点で収容所の究極にある人間のありようを記録した彼が、『夜と霧』で伝えたのは、ホロコーストの凄惨(せいさん)な「事実」だけだったでしょうか?ちがいます。彼は、そのような非人間的な状況にあっても、人が人であり続けることができた姿を伝えました。自身の死を目前にしながら、他者に声をかけ、自分のパンを人に与える人間もまたいたことに、人間性のありようを見たのです。それが、人間の真実なのです。そして最後まで人間であり続けようとした意志が、時を超えて、私たちに「収容所の現実」を伝えているのです。

 3年ほど前になるでしょうか、私が在外研究でオックスフォード大学におりました時に、原爆詩の朗読をずっと続けてこられた吉永小百合さんをお招きして、朗読会を行いました。ニューヨークからは、坂本龍一さんが応援に駆け付けてくださって、彼も「福島」について語り、オックスフォード大学の100年以上も昔のピアノで、「戦場のメリークリスマス」を奏でてくれました。吉永さんの朗読は、峠三吉の「序」に始まり、栗原貞子さんの「生ましめんかな」、子供たちの詩、そして最後には原発事故のあとに福島でツイッタ―に発信された和合亮一さんの詩の朗読へと続きました。この朗読会でとても不思議な出来事が起こったのですが、ここでは時間がないので、もしご関心のある方は、この日の記録をエッセーにした『吉永小百合オックスフォード大学で原爆詩を読む』(集英社新書)を読んで頂けたらと思います。そこで、何が起こったか…。人類の考えられないような事実が起きたアウシュヴィッツの負の歴史と、世界で唯一原子爆弾を落とされた日本の悲劇が、重なったのです。それは、読まれた詩が、悲惨な人間の叫びを伝えていたからでしょうか?その苦しみが世界の西と東を繋いだのでしょうか?違うのです。

 朗読を聞いた学生の一人が、見事にその答えを語ってくれました。彼が言ったのは、こういうことでした。「原子爆弾という、人類でもっとも非人間的な行為に対して、表現者たちは、もっとも人間的な方法で応答をしていたことに気づきました」と。思わず胸を揺さぶられました。ホロコーストの災禍を、直接ではなく、間接に自分たちの歴史の中にあるものとして捉えてきた英国の若者が、原爆詩の表現を、「もっとも人間らしい応答」として理解していることに、感動したのです。悲しみ、苦しみに心を動かされたというよりもむしろ、「人間であること」の証を、原爆詩のことばから感じとっていたのでした。広島・長崎の原爆詩が、そこに託された「人間」の思いが、国境を超えた瞬間でした。

 「表現」、それは人間に与えられた力だと思います。それは誰も奪うことのできない力です。エヴァ・ホフマンが母語を喪失して、新たな言語の獲得とともに自己世界を取り戻すだけでなく、第二世代として「和解」のありようを世界に伝えることができたのも、この表現によるものではなかったでしょうか。

 人間を一気に懐疑と不信へと陥れた戦争の世紀を経て、先ほど言いましたように、過去はそこで線引きされて終わったのではなく、その傷跡も、記憶も、次世代の意志によって現在に生き続けています。消去しようとする力も働く一方で、表現者たちは、自分たちの表現という、もっとも人間らしい行為で、過去を繋(つな)ぎとめたのです。私はとくに文学を研究する者として、世界の、戦後第二世代、あるいは第三世代の作家たちのことを念頭においてお話しているのですが、そういった表現者たちがどのような表現を残してきたのかを思う時、私はそこに、遠く国境の向こうから、広島に、そして長崎に、まなざしを投げかけている作家たちがいることに気づきます。たとえば、インドのアルンダティ・ロイ。『小さき者たちの神』の作者にして、インドの闇を描いて英国のブッカー賞に輝いた作家は、人間の暴力を問うエッセーの中で、「ヒロシマ」を一つの極において論じています。広島への想像力こそが、人間を暴力から解放するものであると。

 また、パレスチナの作家マフムード・ダルヴィーシュは、イスラエル軍の空爆にさらされたベイルートの灰色の空に、飛行機が「HIROSHIMA」と描く飛行機雲を象徴的に描きだします。そこに私は、日本の広島を超えて、人間の経験としての「ヒロシマ」を、自分たちの地平に招き入れているのを感じるのです。別の言い方をすれば、広島を同じ人間の負の遺産として捉える意識が、表現者たちの中に胚胎(はいたい)されているということではないでしょうか。それは、世界文学の一つの水脈でもあると思います。

 批評家のMark C.Taylorは、アウシュヴィッツとヒロシマをモダニズムと、その後の時代を大きく隔てる出来事であったと述べています。「19世紀のロマン主義と理想主義に劣らぬユートピアを思い描いて始まった20世紀は、皮肉なことに、広島の炎とアウシュヴィッツの灰を直視することを余儀なくされたのだった。その黒々とした炎の光と灰の粉塵の中でモダニズムは終焉を迎え、その後の時代が始まった。」 (Disfiguring: Art, Architecture, Religion. Chicago: University of Chicago Press, 1922, 46-7)

 A century that began with utopian expectations every bit as grand as those of nineteenth-century romantics and idealists is eventually forced to confront the flames of Hiroshima and the ashes of Auschwitz. In the dark light of those flames and the arid dust of those ashes, modernism ends and somethig other begins.[unquote]

 その新たな時代、ポストモダニズムの懐疑と分断の中で、人類は再生を果たさねばなりませんでした。それは、起こってはならないことが他ならぬ人間の手でもたらされたことによって、もはや人間性を信じられなくなった人間が、いまいちど、人間を信じる力を取り戻す苦しい過程ではなかったでしょうか。経済の復興、国家の復興、それは現在の日本の東日本大震災後の現実を見て明らかなように、人間の心を置き去りにしてはあり得ないことなのです。人間の精神、文化、歴史に刻まれた負の刻印との「和解」が、人間には必要だと言えるでしょう。その中から自分たちに繋がる糸を手繰り寄せ、人間として生きるとはどういうことなのかを自分の問題として受けとめることは、同時に歴史の中で人がどう生きて来たのか、「人間の現実」を確認する行為でもあります。

 人間の現実、それは、生きているということを自身に証しながら人が生きているという現実なのです。だからこそ、アウシュヴィッツの地獄の中で人間であり続けようとした人の意志が時を超えて普遍的な人間の姿を浮かび上がらせるのです。原爆詩の言葉が、「人間を返せ」と、人がここに在るべきなのだと、叫びを挙げることができるのです。痛ましい現実の中で何が守られねばならないか、人間の尊厳が、はっきりと顕現されてくるのです。

 今日のタイトル「未来への記憶」、それは、まさしく、人が人間として生きていたのだということの記憶が、これからも生きていく未来の人間たちに拓かれた地平であるということを語っています。

最後に、エヴァ・ホフマンの『記憶は和解のために』の中に登場する、一人の少女のエピソードをご紹介したいと思います。このエピソードのことを、ほかのところで書いたものから引用させて頂こうと思います。<『世界文学を継ぐ者たち――翻訳家の窓辺から』p.32―33詩の最後まで>

 エヴァ・ホフマンの翻訳の過程で、思わず胸がいっぱいになった場面がある。マイダネクの収容所で死んでいった「エルズニア」という九歳の少女が、靴のなかに詩の一片を残して逝ったという印象的なエピソードを読んだときのことだった。

 エルズニア――「エリザベス」の愛称で、ポーランド語の発音は「エルズーニャ」――は自身の運命を充分すぎるほど分かっていて、せめて自分がいなくなったあとにその詩にメロディをつけて歌ってほしいという願いを籠(こ)めて、たった四行の一片の詩をそっと靴に入れて逝ったのだった(「コートのポケットのなかに縫いつけられていた」〈Gail Ivy Berlin,2012〉という説ものちに見つけたが、確たる証拠があるわけでもない。小さな靴を想起しながらホフマンの言葉と向き合った翻訳者の私は、このまま「靴の物語」として紹介したいと思う)。のちにエルズニアの願いは叶い、少女の思い通りに、ポーランドの子守唄のメロディで歌われたのだという。実際にその歌を耳にしたホフマンの思いが綴られていた。哀しいが感動しないではいられないとホフマンが記すその調べを聴いてみたいという私の願いに答えて、彼女はなんとその子守唄を発見してくれた。それは、ポーランド語で「イスケレチカ」、「暖炉の火花」という子守唄だった。いつか、日本に伝えたい、私の願いもきっと実現するにちがいない。

  むかしむかしのことでした。
  名前は小さなエルズーニャ
  ひとりぼっちで死にました。
  マイダネクは父さんの
  アウシュヴィッツは母さんの
  命が消えた場所でした。
  ひとりぼっちのエルズーニャ
  その子も死んでゆきました。

 少女は、自分が死ぬことがわかっていて、それでも、自分が生きた「証」を靴の中の詩に託して、未来の誰かに伝えていこうとしたのです。これは、まさしく「未来への記憶」ではないでしょうか。そして彼女の願いはいまこうして叶って、おそらく予想だにしないことに、21世紀の広島の皆さんのもとに届けられたのです。時間と距離はこうして克服されていくのだと思います。

 2012年7月、このエルズニアの詩は、埼玉県東松山市にある丸木美術館のアウシュヴィッツの絵の前で、斉藤とも子さんの朗読で読まれました。そしてエルズーニャが願った通りに、ポーランドの子守唄のメロディーで伴奏されました。しかも、広島の被爆ピアノを奏でるチェ・ソンエさんの伴奏で、時を超え空間を超え、この日本に伝えられたのです。エルズーニャの「意志」が、そしてそれを掬い上げたエヴァ・ホフマンの意志が、その瞬間を可能にしたのでした。そしてエヴァ・ホフマンの言葉を託された翻訳者の私が、日本の皆さんにそれを伝えることができたとしたら、私は自分の務めを果たせたのだと思います。

 この機会に、この広島の地で、ふたたびこの少女の言葉を伝えたいと思います。2013年の1月、東京の津田ホールで、こんどはソプラノ歌手のコロン・えりかさんが、長崎出身の作曲家大島ミチルさんの伴奏で歌ってくださったときの映像です。これを、私のお話のエピローグにさせてください。

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