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連載・特集

3・11 3年目の絆 <下> 支える 新たな避難者の場準備

 「ふるさとの岸を離れて 汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)」。島根県大田市三瓶町の歌手梶谷美由紀さん(42)はステージに立つ時、唱歌「椰子(やし)の実」を歌う。自宅を離れてさまよう避難者の姿を歌に重ねる。

 梶谷さんは、同市出身。歌手としてメジャーデビューし、東京で家族5人で暮らしていた。変化が訪れたのは、東日本大震災後から4カ月後の2011年7月。子どもが体調を崩してから。

 盛んに報道されていた福島第1原発事故による放射線の影響を心配した。「子どものために遠くへ逃げよう」。夫を残し、子ども3人を連れ、一時的なつもりで故郷へ避難した。

22人で共同生活

 市の仲介で町内の元企業保養所を無償で借り、関東からの自主避難者と共同生活を始めた。「食べ物の放射能汚染を気にしなくていい」「子どもが外で遊べる」。同じ思いを持った避難者同士はすぐに打ち解け合った。短期も含め9家族22人が暮らした。

 だが、5カ月が過ぎたころ、企業から退去のお願いがきた。地元住民の紹介を受けた梶谷さん以外は、国内外に新たな避難場所を求め、去っていった。支え合っていた存在が消えた。小学生だった長女も環境の変化から学校へ行きたがらない時期もあった。

集い参加で衝撃

 二重生活を続ける中の13年8月、岡山市に避難する知人に誘われ、山口市であった中国地方の避難者の集いに加わった。活発に意見交換する他県の避難者の姿。情報量の多さにも圧倒された。中国地方5県で避難者団体がないのは島根県だけと知ってショックを受けた。

 県防災危機管理課によると2月26日現在、県内には計120人が避難する。自立している避難者が多いとみて「避難者同士で交流するのではなく、移住した人がこれから避難する人を支える団体が必要」とする。今月から県内の避難者に声掛けを始めた。「福島第1原発事故の問題は今も続いている。避難者の受け皿になりたい」。梶谷さんは決意を固めている。(黒田健太郎)

(2014年3月11日朝刊掲載)

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