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連載・特集

3・11後を撮って <下> 写真家 笹岡啓子さん 「Remembrance」 見えないものを想起

 除染作業があると知って撮りに行ったわけではないんです。福島県浪江町の、日中は誰でも入れる区域なのに普段は誰もいない。放射性物質は見えないし、においもない。最初から無人だったと言われたら疑わないような風景です。

 そこに偶然、白い(防護服を着た)人たちが現れて除染のためにぼうぼうの雑草を刈り始めて。作業する人はこの世の人でもないような不思議な雰囲気で…。

 どうしてこの風景が生まれたのか、この作業にどれだけの意味があるのか、不在の住民を思いました。汚染物質だけでなく、この状況を生んだ原因や、人々が暮らしていたという、この土地の過去まで取り除かれていくようにも思えて。

 東日本大震災の約1カ月後から被災地に通い続け、撮った写真は、小冊子「Remembrance」(記憶、想起)として次々刊行。全41号は先月「林忠彦賞」を受けた
 震災直後には、テレビやインターネットに惨状を伝える映像や写真があふれました。これでもかと示される光景は確かに衝撃的だったけど、私には具体的な様子が分からなかった。とにかく自分の目で見ようとカメラマン仲間と、現地に向かいました。

 津波で大きな被害を受けた岩手県釜石市でカメラも出せず、立ち尽くしていると「隣の大槌町はもっとひどい。原爆が落ちたみたいだ」と言う人がいて、広島出身の私はどきっとして。行くと、確かに写真で見た被爆直後の広島に似た光景が広がっていました。

 そこで押さえたカットも含め、どれも突き放したように広角で、被災地を捉えている
 目の前で起きていることを過剰に自分に引き寄せない。私にとっては、そこに被害の痕跡を探すのをあきらめることから始まるんです。今の光景には、過去を引き継いでいるものが必ずある。

 震災で何がどう変わったか。被害の大きさや分かりやすさより、小さくて分かりにくいもの。抑圧されていたり、犠牲になったりした小さな声や変化を撮りたいと思ってきました。

 被災地での撮影には、古里広島の歴史を見つめ、平和記念公園や周辺を撮り続けた経験も生きる  原発事故後まもなく、メディアに「フクシマ」という言葉が定着し始めたのには、とても違和感があった。広島の被爆体験も「ヒロシマ」と語られるうち、復興や核兵器廃絶の象徴とされ、その土地の過去や、そこに暮らす人たちが、置き去りにされてきたように思うから。

 東北の復興に向け、まるでお手本のように語られる「ヒロシマ」は、「オールOK」と言えるのか。平和記念公園に象徴される復興の陰で、立ち退きを余儀なくされた人がいた歴史や、今に続く被爆者援護の問題のように、こぼれ落ちているものはないか。例えば防潮堤事業や除染作業も同じではないか。

 私自身、見えないものを見抜く想像力を持ちたいし、見る人にも想像してもらえる写真をこれからも撮り続けたいと思っています。(聞き手は森田裕美)

ささおか・けいこ
 1978年広島市安佐南区生まれ。写真集に「PARK CITY」など。2008年、VOCA展奨励賞受賞。東京都在住。

(2014年3月14日朝刊掲載)

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