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ヒストリー

ヒロシマの記録1995 7月 ②


1995/7/21
中国新聞社が被爆50周年記念企画として編集した「年表ヒロシマ~核時代50年の記録」が刊行。原爆投下以来、中国新聞が伝えたヒロシマ報道を基本に「核時代の半世紀」を年表で集大成。復興、被爆者救援、原水禁運動、原発、文化など国内外の原爆、核問題関連の動きを克明に収録。収録総件数は約2万8千件、関連写真も約2千枚。事項、人名索引付き
1995/7/21
二つの広島県被団協など広島の被爆者7団体が、仏核実験再開決定に抗議してフランス製品ボイコット運動の開始を申し合わせる
1995/7/21
日本被団協が仏核実験再開表明に対し、在日仏大使館にシラク大統領あての抗議文を提出。大使館への直接の抗議行動は初
1995/7/21
ニュージーランド自治領のクック諸島のヘンリー首相が仏核実験再開に抗議するため、カヌーをムルロア環礁に派遣すると表明
1995/7/21
環境保護団体グリーンピース・ジャパンが仏核実験再開問題で国内10政党に送った公開質問状の回答を得る。自民、社会、さきがけ、新進、共産、二院クラブ、公明、平和・市民、連帯、平成維新の会。核実験再開には全党が「反対」、「対仏非難国会決議」には新進、公明を除く8党が支持
1995/7/21
衆参両院議員47人が仏核実験再開に反対する声明
1995/7/21
米空軍歴史博物館主催のシンポジウム「太平洋における第2次世界大戦」で、日本が戦時中、北朝鮮の咸鏡南道・興南で核兵器の研究開発をしていた-と米メリーランド大のシオドア・マクネリー名誉教授が紹介
1995/7/21
広島市の平和大橋、西平和大橋の架け替え可否について、広島市が「平和大通り将来構想検討委員会」で、現在のデザインを継承して架け替えることを提案
1995/7/21
広島国際文化財団が第4回アジア記者招請プロジェクトの記者を発表。韓国、香港、ベトナム、イスラエルの4カ国5人。25日までに全員広島に到着。アジアの視点から被爆50年の広島、長崎などを取材。8月17日、18日にそれぞれ帰国
1995/7/22
被爆50周年記念展「ヒロシマ以後 現代美術からのメッセージ」(広島市現代美術館、中国新聞社主催)が同美術館で開幕。9月17日まで。1945年から現代までの核やヒロシマをテーマにした作品
1995/7/22
パグウォッシュ会議に参加するジョセフ・ロートブラット会長(ロンドン大名誉教授・物理学者)らが広島国際会議場で記者会見。仏核実験再開を強く非難、実験の全面停止を訴える
1995/7/22
連続シンポジウム「ヒロシマを語る」が「戦後50年・アジア理解への行動提起」をテーマに広島市内で開会。中国新聞が8月2日付で詳報を掲載
1995/7/22
広島原爆の子記念財団(事務局ニューヨーク)が本年度の英訳「原爆の子」読書感想文コンクールに入賞した米の高校生2人を発表。1席はニューヨーク州グレートネックノース高校2年のレイモンド・ギリアー君、2席が同州タウンゼンドハリス高校1年のナタルカ・パルチェンスキーさん。8月1日に広島入り。8月4日、原作の執筆者で作る「『原爆の子』きょう竹会」(早志百合子会長)の会員と対面。6日、安田女子高校での「ノー ニュークス コンサート´95」に参加。14日、文部省で島村宜伸文相を訪問。18日に帰国へ
1995/7/22
「平和の灯奉賛会」が被爆50周年を前に、平和記念公園の「平和の池」を清掃奉仕
1995/7/22
岡山県原爆被爆者会井笠支部が初の語り部活動。おかやまコープ笠岡センターで子どもらに被爆体験を話す
1995/7/24
日本生活協同組合連合会が呼び掛けた「´95市民平和行進」の広島-長崎コースが広島平和記念公園を出発
1995/7/24
連合広島が被爆50周年と結成5周年を機に初めて派遣する「欧州平和視察団」が広島を出発。仏のユネスコ本部で原爆ドームの世界遺産化へ協力を要請
1995/7/24
フランス社会党がシラク大統領に、核実験再開決定の再考と実験再開の国民投票実施を求める。国際的な反発が理由
1995/7/24
ニュージーランド政府が海軍の海洋調査船「ツイ」を仏核実験予定地のムルロア環礁に派遣することを決定
1995/7/24
広島市が米紙ワシントン・ポストの8月6日付に核廃絶の意見広告を掲載すると発表。同月7日付の「ワシントン・ポスト・ナショナル・ウイークリー」にも掲載へ
1995/7/24
「核兵器のない世界を目指して」をテーマに、第45回パグウォッシュ会議が広島市の広島国際会議場で開幕。世界の科学者ら46カ国165人が参加。「広島・長崎50周年」をテーマの全体会議では評論家の加藤周一氏、会長でロンドン大名誉教授の物理学者ジョセフ・ロートブラット氏が基調講演。「核兵器と戦争の廃絶に向け全力を尽くす」との「広島宣言」を読み上げる。25日夜、科学者と市民の対話集会。29日、「ラッセル・アインシュタイン宣言40周年」と題する全体会議を開き、科学者の社会的責任を訴えた宣言の精神を継承、核兵器と戦争の廃絶に努めることを確認し、閉幕。31日、ロートブラット会長らが6日間の会議を総括し「パグウォッシュ評議会声明」。中国、仏の核実験再開の動きを批判、一切例外のない包括的核実験禁止条約の締結を世界に訴え
1995/7/24
「おおさかノーモアヒバクシャ展」が大阪市天王寺区で開会、25日まで。大阪市原爆被害者の会の主催。会員が原爆資料館に寄贈した子どもの衣服などが28年ぶりに里帰り展示
1995/7/25
広島市内の平和記念碑や銅像を写真と絵で描いた「ひろしまピースモニュメントマップ」がJR広島駅新幹線口コンコースに設置。JR広島支社が被爆50周年で発案、8月10日まで
1995/7/25
米の原爆開発「マンハッタン計画」に参加し、戦後の核開発にも影響を与えた米物理学者8人が、世界の科学者に「原爆製造から手を引こう」と呼び掛ける署名運動を開始。広島とワシントンで同時発表。広島ではパグウォッシュ会議に参加の米国科学者連盟のジェレミー・ストーン会長が発表
1995/7/25
韓国ソウルで、原爆被害と日本のアジア侵略の実態を伝える「侵略と原爆展」が始まる。31日まで。「韓国の原爆被害者を救援する市民の会広島支部」や「市民運動ネットワーク長崎」などが「韓国原爆被害者協会」と共同企画
1995/7/25
広島県豊田郡川尻町の「町民ぐるみ折りづる運動」が12年間で通算50万羽を超える
1995/7/26
明仁天皇、皇后両陛下が戦後50年の「慰霊の旅」で最初の訪問地、長崎入り。出発に際し異例の文書。「非命に倒れた人々をしのんで、心から追悼の意を表します。原子爆弾に対する世界の認識が深まり、人類がこのような災いを二度と経験することのないよう、平和を願い、犠牲者のめい福を祈ります」と気持ちを述べる。平和祈念像前で供花、「恵の丘長崎原爆ホーム」を慰問
1995/7/26
ギリシャ出身のピアニスト、デモステネス・ステファニディスさんが広島市役所の市民サロンコンサートで原爆をテーマに作曲したピアノソナタ「広島原爆犠牲者への献呈」を披露、平岡敬広島市長に楽譜を寄贈
1995/7/26
ポルトガル・リスボンで開かれる「ピースメッセンジャー都市会議」に出席する広島市の上川孝明財政局長と広島平和文化センターの建部賢次事業部主任が関西空港を出発。「都市の平和文化」がテーマで、世界平和に向けた都市間の連携を訴えへ
1995/7/26
旧ソ連、ロシアの放射性廃棄物の海洋投棄問題で、科学技術庁が日本、韓国、ロシア3カ国と国際原子力機関(IAEA)による日本海合同調査の共同報告書を公表。「異常な放射能値は検出されず」 1995/7/26
広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式で初の「平和への誓い」を読む子ども代表に、安佐北区白木町の志屋小6年、久保美幸さん(11)と西区草津南の草津小6年、山口賢二君(11)が決まる。「平和の鐘」を打つのは佐伯区の保母、石井伸子さん(29)と中区の本川小6年、西村弘和君(12)
1995/7/26
仏核実験再開決定に対し、仏領ポリネシアのタヒチ島で核実験場の建設労働者ら約60人が被曝(ばく)の実態を証言
1995/7/27
呉市仁方地区子ども会連合会が、地域の3世代で折った約5千羽の折りづるを呉市と呉原爆被爆者友の会に贈る
1995/7/27
福山市の無職山賀昇三さんが広島の原爆廃虚から掘り出した被爆洋皿の所有者の親族が、広島市中区のギャラリー経営朝田淳夫さんと判明。持ち主はおじ。中国新聞の記事がきっかけ。8月1日、所有者の娘の神田ちほさん=同市南区=ら親族に返還
1995/7/27
島根県NIE推進協議会が発足。松江市の長江小が中国新聞の被爆50周年企画「検証ヒロシマ1945-95」などを教材に原爆や戦争の実情を知る実践例を報告
1995/7/27
「反核平和の火リレー」(広島県青年婦人平和友好祭実行委員会主催)が広島市役所に到着。6月22日に平和記念公園を出発、県内86市町村を走り継ぎ、非核自治体宣言や被爆者援護法の国家補償化を要請
1995/7/27
中国新聞の企画「被爆者´95 半世紀を生きて」の第3部「平和への願い」が連載開始。今なお熱い被爆者の平和への思いを探る。8月1日まで6回
1995/7/27
戦後50年「慰霊の旅」で明仁天皇、皇后両陛下が広島入り。原爆慰霊碑に供花、安佐北区の原爆養護ホーム「倉掛のぞみ園」を慰問。両陛下の即位後の広島訪問は4回目
1995/7/28
広島平和文化センターが構築を進める「平和データベース」の第1弾「静止画データベース」が完成、報道関係者に公開。蓄積された画像データは(1)米陸軍病理学研究所から返還された被爆直後の市街地などの写真約1,200枚(2)広島原爆被災撮影者の会の写真約300枚(3)市民が描いた原爆の絵約2,200枚の計3,700点。8月6日から一般利用を受け付けへ
1995/7/28
米の平和団体や宗教グループが、原爆投下を謝罪する書簡を携えて広島、長崎の原水禁世界大会に参加-と米市民グループ「和解のための連帯」が明らかにする。戦後50年を機に、米国内にも謝罪の気持ちがあることを伝える。謝罪書簡は歌手ジョーン・バエズさんら全米約7,500人が署名
1995/7/28
台湾の李登輝総統が国民大会で「核開発の必要があるかどうかは長期的研究を待つべき」と核開発に含みの発言。中央通信社は29日、「発言は核開発を否定」との総統府談話を配信
1995/7/28
被爆50周年を記念し広島大原医研の国際シンポジウムが同大医学部で開会。旧ソ連の研究者も参加し、セミパラチンスク核実験場周辺やチェルノブイリ原発事故被災の実態が報告
1995/7/28
井原市主催の「戦災のきろく展-戦後50周年被災地”沖縄・広島・岡山のきろく”」がアクティブライフ井原で開幕、8月4日まで
1995/7/28
広島市が原爆被爆者動態調査(第5期被災調査事業・1991-94年度)の結果を発表。原爆投下の45年8月6日から同年末までに死亡した被爆者数は、前回の第4期調査(88-90年度)より2,271人減り、8万7,833人。45年末までの死没者数は、市が国連への要請書(88年)で公表した「14万人プラスマイナス1万人」の推定値を下回る。原爆の人的被害の全体像はいまだつかめず、第6期調査でさらに作業継続
1995/7/28
世界平和連帯都市市長会議(会長・平岡敬広島市長)が、核実験再開の姿勢を崩さない仏シラク大統領に抗議文を郵送。同会議が核実験に関し抗議文を送ったのは1982年設立以来初めて
1995/7/28
新党さきがけの武村正義代表(蔵相)が、仏核実験海域での抗議行動に参加する考えを正式に表明
1995/7/28
仏のドシャレット外相がオーストラリア紙シドニー・モーニング・ヘラルドに同国民向け公開書簡を寄せる。仏核実験再開に対する南太平洋地域の怒りは理解できるが、政治的な反対運動は「全く容認できない」と強調
1995/7/29
被爆の惨状や核汚染の実態を撮影した写真展「核の恐怖」(「反核・写真運動」主催)が東京・新宿と長崎市の画廊で同時開幕。故山端庸介氏や故土門拳氏らフリー写真家や報道カメラマンら約50人の作品約650点
1995/7/29
広島県双三郡三良坂町の平和美術館で「´95平和美術展」が開幕。丸木位里・俊夫妻の「原爆の図=高張提灯」など平和、人権を訴えた21人45点の作品を展示。8月20日まで
1995/7/29
広島市中区の袋町公園で袋町学区慰霊祭。爆心に近い同学区は原爆で住民約2万7,000人の9割が即死。1973年から慰霊祭
1995/7/29
浜田市殿町の市民集会所で「平和アピールパネル展」。島根県原爆被爆者協議会浜田支部の会員が被爆体験を語る
1995/7/29
大阪市原爆被害者の会主催の「被爆50周年原爆犠牲者慰霊祭」が大阪市天王寺区の四天王寺本坊で営まれる
1995/7/29
空襲で長崎型模擬原爆3発が落とされた宇部市で、市民グループ「宇部市の空襲を記録する会」が爆心地を歩くピースウオーク。4回目。模擬原爆は弾道調査のため長崎の前に通常爆弾を装てんして投下
1995/7/29
笠岡市の平和祭に「ヒロシマの心」を届ける「ピースラン´95」が広島市の原爆慰霊碑前をスタート。2日間かけ笠岡まで154キロを走破へ。5年前から始まる
1995/7/29
広島県原水禁などが広島市の見真講堂で「被爆50周年広島県民集会」を開催。被爆者援護法の「国家補償」明記や仏、中国の核実験阻止などの運動展開を決める
1995/7/30
環境保護団体グリーンピースのメキシコ支部が、仏核実験決定に反対し、メキシコ国立芸術院前で仏彫刻家ロダンの「考える人」に扮し抗議行動
1995/7/30
「ヒロシマ・平和のリボンの会」の呼び掛けで、中国地方や関東、関西の市民約500人が、核兵器廃絶メッセージなどを書き込んだ平和リボンで原爆ドームを囲む。1990年以来2回目
1995/7/30
被爆50周年記念展「ヒロシマ以後 現代美術からのメッセージ」第2部が広島市現代美術館で開幕。「ヒロシマ」をテーマにした国内外5人の作家のインスタレーション
1995/7/30
「被爆50周年国際シンポジウム」に参加のため広島を訪れた仏映画監督ルネ・ボーティエさんが中国新聞のインタビューで語る。「仏が1960年に初めてアルジェリアで行った大気圏核実験の際、アルジェリア人捕虜が人体実験に使われた疑いがある」
1995/7/30
「東京都原爆犠牲者慰霊祭・追悼のつどい」が都内の東海寺で営まれる。東京都原爆被害者団体協議会(東友会)主催。31回目、初めて国と都から助成金が出たため、宗教行事の慰霊祭と追悼の2部に分ける
1995/7/30
戦後50周年府中市民追悼式が市文化センターで営まれ、平和と民主主義を求める宣言。市と市原爆被害者の会が主催
1995/7/30
防府市原爆被害者の会の総会が、被爆50周年を機に被爆体験を継承するなどの事業計画を決定
1995/7/30
戦後、被爆50周年記念の笠岡市平和祭(市など主催)が市保健センターで開会。「ピースラン´95」到着式や広島の語り部の講演など。核兵器廃絶宣言を採択
1995/7/30
被爆50年福島地区慰霊祭が広島市西区福島町の慰霊碑前で営まれる
1995/7/30
戦時中に強制連行され、広島で被爆死した中国人楊希恩さんの妻の陳秀英さんと長男楊世斗さんが広島を訪問。「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」の招き。8月3日、原爆供養塔前の追悼式で参列へ
1995/7/30
原爆で黒焦げになった十字架が広島市中区上幟町、流川教会の礼拝堂に掲げられる。鉄砲町の旧流川教会で被爆、その後、教会の片隅で保存。被爆50周年を機に戦争犠牲者への追悼と謝罪、平和への祈りを込めて移す
1995/7/31
国連NGO軍縮特別委員会(本部・ジュネーブ)などによる「被爆50年国際シンポジウム」が広島国際会議場で開会。23カ国75人の海外参加者を含む約300人が参加。地球規模の集団安全保障の促進を訴え。被爆者の証言や放射能の影響を報告。8月2日、核兵器廃絶協定の締結交渉の早期開始をすべての政府に求める声明を発表し、閉幕
1995/7/31
「被爆50年国際シンポジウム」に参加した米タフツ大のマーティン・シャーウィン教授が、米歴史家でつくる「ヒロシマに関する公開論議のための歴史家委員会」名で、スミソニアン協会のマイケル・ヘイマン事務局長に抗議の手紙を送ったことを明らかにする。エノラ・ゲイ展が原爆投下を正当化する意図的な解釈と指摘
1995/7/31
広島市の被爆50周年記念事業「こども平和のつどい」が広島市の広島国際会議場をメーン会場に開幕。世界の子どもを招き、被爆の実相を継承する狙い。米、中国など11カ国・地域と長崎の約60人が参加。2日目は広島市内31校の児童も合流し言語別に被爆体験を聞く。3日、メーン行事の「こども平和会議」(広島国際会議場)で平和アピール
1995/7/31
広島、長崎県原水禁が共同で資金を募り、核兵器廃絶を訴える全面広告が米紙ニューヨーク・タイムズ(31日付)に掲載
1995/7/31
連合、原水禁国民会議、核禁会議の3団体が在日仏大使館に核実験再開決定への抗議文を手渡し、計画撤回を求める。中国大使館にも抗議と再開中止を申し入れ
1995/7/31
包括的核実験禁止条約交渉を中心議題にするジュネーブ軍縮会議の1995年第3会期が開始
1995/7/31
徳山被爆者の会が総会で、原爆絵画写真展の開催など事業計画を決定。新会長に谷川キクエ副会長を選出
1995/7/-- 
広島修道大の学生サークルが、戦後50年の大学生の戦争、平和観を知る学内アンケートをまとめる。「日本はアジア諸国を侵略」が94.2%、「原爆投下はやむを得なかった」も17.2%
1995/7/-- 
米の原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島、長崎の被爆者から収集した医学データを、国防総省が将来の核戦争を想定した軍事目的研究にも利用していた事実が、同省や米学士院などの解禁文書から確認
1995/7/-- 
原爆被害調査の途中、1945年9月の枕崎台風で11人が亡くなった京大原爆災害総合研究調査班の活動を記録した「医師たちのヒロシマ」英訳本が、京都府木津町の奈良女子大教授杉峰英憲さん、ふさみさん夫妻(ともに呉市出身)らの手で出版。原本は「核戦争防止・核廃絶を訴える京都医師の会」が91年発刊。米スミソニアン航空宇宙博物館にも寄贈へ
1995/7/-- 
広島大の前身、旧制広島高校の同窓生有志が、被爆50年の回想集「廣高とヒロシマ」を出版。広高出身者や教員の遺族の手記、同窓生の回顧録など収録
1995/7/-- 
爆心地から約1キロの広島市中区の神崎国民学校(現神崎小)の被爆児童慰霊碑が河原町公園に30数年ぶりで再建。8月3日に除幕へ
1995/7/-- 
第2次世界大戦末期、旧日本軍の最高機密だった九州・小倉の毒ガス兵器工場の情報が米軍に筒抜けだったことが判明。米バージニア州マーシャル研究財団から共同通信が入手した米軍文書コピーから分かる。原爆投下目標を検討するための情報収集と見られる
1995/7/-- 
ドミニカ共和国の作詞・作曲家ホセ・ペゲロさん、アリシア・バローニさん夫妻が、被爆50周年を記念した反核平和の歌「繰り返さないで」「ヒロシマ」の2曲を作る
1995/7/-- 
生協ひろしまが被爆体験の聞き語り集「語り継いで…」を発刊。手記や体験談27編を収録
1995/7/-- 
「日本は中国、北朝鮮への警戒感から軍備増強を加速しており、今後、核兵器開発に着手する可能性がある」と分析した中国政府の内部報告の内容が分かる。4月、政府や軍幹部に配布済み。日本政府は「あり得ない話。日本は非核三原則を堅持し、核拡散防止条約(NPT)に加盟、国際原子力機関(IAEA)の査察を受けている」と否定
1995/7/-- 
広島市安佐北区可部の研井悦子さんが、原爆で亡くなった学友への鎮魂と平和への願いを託した歌集「夏の声」を刊行
1995/7/-- 
原爆で消えた広島市中心部の木挽(こびき)町(現・中区中島町)の元住民が、9年かけて戸別地図を復元。消息の分かる元住民56人に配布へ
1995/7/-- 
東京の市民団体「平和博物館を創る会」が、原爆投下直後の広島市内を撮影した写真6枚の複写ネガをNECの協力でコンピューター画像処理し、フィルムの傷を修復。元中国新聞カメラマンの松重美人さんの撮影。修復写真はCD-ROMに記憶し永久保存へ
1995/7/-- 
原爆詩を題材に、尾上和彦氏が作曲したオラトリオ「鳥の歌」の練習が進む。8月1日に広島国際会議場で11年ぶりに上演へ
1995/7/-- 
広島県内の被爆者19人の半生をまとめた「生きる 被爆者の自分史」が出版。日本被団協の元職員が提唱した被爆者の自分史運動の一環、「原爆被害者相談員の会」メンバーらが委員会を作って編集
1995/7/-- 
広島市が募集している「ひろしま21世紀へのはがき」が、15日の締め切りを前に応募が少なく、目標の20万枚を下回りそう
1995/7/-- 
終戦2年後から2年がかりで国が調査しつつ非公開だった広島、長崎の原爆被害報告書が「史料・太平洋戦争被害調査報告」(東京大学出版会)の中で初めて公表へ。物的被害だけを対象に、広島約7億円、長崎約2億5千万円と算定。合計で全国の戦争被害額の2%と報告
1995/7/-- 
広島市と市教委が、世界遺産化を目指す原爆ドームの前身、旧広島県産業奨励館の立体ペーパークラフトを作製。「あの日あのころ ひろしま50年展」(8月1日~7日)で販売へ
1995/7/-- 
仏在住の平和運動家ミホ・シボさんが、漫画家の中沢啓治さんの被爆体験記を仏語訳した「私はヒロシマで六歳だった-1945年8月6日8時15分」をパリの出版社から発刊
1995/7/-- 
米スミソニアン航空宇宙博物館の原爆展示で専門家諮問委員を務め、展示内容変更に抗議、辞任した米科学史家スタンリー・ゴールドバーグ博士(60)が論文を発表。「ルーズベルト、トルーマン両政権がマンハッタン計画で総額20億ドルもの巨額を極秘裏に支出し、原爆開発を推進した結果、広島、長崎へ原爆投下せざるを得なくなった」。使用せず終戦を迎えれば政治責任を追及される危機感が強い動機になったことを初めて論証
1995/7/-- 
広島原爆投下機エノラ・ゲイの元機長ポール・チベッツ氏(80)がオハイオ州の地元紙(2日付)インタビューに答え、「出撃は仕事であり義務だった」と語る
1995/7/-- 
日本原子力研究所が、原発の使用済み核燃料を再処理した後に残る長寿命放射性物質を大型加速器と特殊原子炉を組み合わせたプラントで消滅する計画に着手へ
1995/7/-- 
広島市こども図書館が冊子「子どもたちへ原爆を語り継ぐ本総集版」を発行。原爆をテーマにした子ども向け図書366点の内容を紹介。市内の小中学校などに配布へ
1995/7/-- 
戦時中に広島市内で被爆した韓国人元徴用工ら4人が請求していた厚生年金の脱退手当金の還付で、広島東社会保険事務所が不支給決定を通知。「受給権は時効により消滅」が理由
1995/7/-- 
米国生まれでベルギー在住のジャズピアニスト、マル・ウォルドロンさんが原爆資料館内に流れる詩「白い道」に感動し曲をつける。8月6日、爆心に近い広島市の善正寺でライブを計画
1995/7/-- 
漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんらが設立したイベント会社「ゲン・クリエイティブ」が芝居や漫画で平和を訴える活動を本格始動
1995/7/-- 
原爆開発計画の幹部が、殺傷力を高める投下方法を提案していたことが明るみに。まず強力サイレンか発光装置付き偽装爆弾を爆発させ、日本兵の目を引き付けたうえで原爆を落として殺傷を高める仕掛け。科学史家スタンリー・ゴールドバーグ博士が米国立公文書館の資料から提案書を発見。実行はされず
1995/7/-- 
広島県高田郡甲田町の上野コスエさん(77)が、1年かけて折りづる3万3千羽を折る。三次市から広島平和記念公園に向かう平和行進に託し、8月6日の平和祈念式会場へ
1995/7/-- 
広島市に建設中のケアハウスに入居を申し込んだ北九州市小倉北区の原爆小頭症患者、川下ヒロエさん(49)と母の兼子さん(73)が、「年齢基準が満たされていない」と入居を断られる
1995/7/-- 
長崎の被爆後、最も早い時期に撮影された映像の一つとみられる16ミリカラーフィルムが米で見つかり、東京の市民グループ「平和博物館を創る会」(羽仁進代表理事)が入手。米軍の第2海兵隊が沖縄から佐世保経由で長崎に入った際、専属カメラマンが撮影。フィルム記載データでは1945年9月23日から11月10日の撮影
1995/7/-- 
被爆直後の広島を調査した元東京大教授草野信男さん(85)の編集で発行された英文報告書「ATOMIC BOMB INJURIES(原爆症)」(1953年)が42年ぶりに復刊へ。2千部印刷、海外へ寄贈運動も
1995/7/-- 
春に閉校された広島県立保育専門学校の卒業生ら24人が、在学当時つくっていた人形劇団「こんぺいとう」を再結成。30日に原爆の恐ろしさを訴える子供用人形劇「赤とんぼやけた」を公演へ
1995/7/-- 
広島市西区観音地区の被爆者でつくる観音被爆証言編集委員会(栗栖基紀代表)が記録集「観音被爆50年」を発刊。被爆者35人の体験記や聞き書きを収録
1995/7/-- 
広島市西区都町の町内会が、地域再開発で中断していた原爆供養の盆踊り大会を8月に10年ぶりで復活へ
1995/7/-- 
広島市の原爆資料館元館長、高橋昭博さん(63)=西区草津梅が台=が、被爆者運動と平和行政にかかわった半世紀を描く自伝「ヒロシマいのちの伝言 被爆者高橋昭博の50年」を平凡社(東京)から出版
1995/7/-- 
香港のレストラン約30軒が仏の核実験再開に抗議して1週間にわたりフランス産品の購入をボイコットへ
1995/7/-- 
核兵器使用の違法性について審理する国際司法裁判所の初口頭弁論が10月30日に開かれる-との連絡が、日本反核法律家協会代表団の一員の佐々木猛也弁護士(広島弁護士会)に届く
1995/7/-- 
放影研(重松逸造理事長)が研究所の一般公開(8月5日)に際し、前身の原爆傷害調査委員会(ABCC)時代から批判を受けてきた「被爆者治療をしない」点に関し、被爆者へのおわびを盛り込んだガイドブック配布を計画
1995/7/-- 
尾道朗読の会(小西美智子代表)のメンバーらが、広島、長崎で被爆した母親らの手記や証言で構成した朗読劇「この子たちの夏 1945・ヒロシマ・ナガサキ」を、23日に尾道市総合福祉センターで自主上演へ
1995/7/-- 
原爆投下直前の搭載機エノラ・ゲイの機影を防空監視中に発見した広島県世羅郡甲山町の住民が、回顧録「蘇る爆音-甲山防空監視哨・思い出集」の発刊作業を進める
1995/7/-- 
広島市の平和大通りのシンボル、平和大橋と西平和大橋の架け替え可否をめぐり、市が頭を痛める。橋は老朽化したが、日系米国人の彫刻家イサム・ノグチ氏の設計した欄干の保存を求める声もあり、結論を出せず
1995/7/-- 
連合広島が被爆・戦後50周年と結成5周年を記念し、アジア地域を対象に平和協力活動を展開するための基金創設の検討を始める
1995/7/-- 
仏核実験再開決定に抗議し、広島のヨットマンでつくる「広島インランドシー・ヨットクラブ」(猪谷茂理事長)が、核実験場のある仏領ポリネシアで反核航海を計画
1995/7/-- 
広島自治体問題研究所(理事長・田村和之広島大教授)が、原爆や平和問題の課題を解説した論文集「被爆50年-原爆投下とこれからのヒロシマ」を発刊。研究者5人が執筆
1995/7/-- 
中国放送が、米ワシントンのアメリカン大で開かれる原爆投下決定をめぐる公開討論会の模様を、16日深夜に衛星生中継へ
1995/7/-- 
「チェルノブイリ子ども基金」(本部東京)が、旧ソ連・ベラルーシ共和国に開設された保養センター「希望21」の被災児童のため、日本の里親を募集。療養継続の費用を負担
1995/7/-- 
広島に住む外国人を中心にした「広島インターナショナル・ウイメンズ・クラブ」有志が、仏核実験再開決定や中国の核実験の中止を求め、折りづる製作に励む。月末にシラク仏大統領と江沢民・中国国家主席に送る
1995/7/-- 
三原市原爆被害者の会が被爆50年記念事業で体験記「被爆者の心」を発刊
1995/7/-- 
広島県安芸郡府中町の音楽教室経営、神保重喜さんが被爆50周年で被爆死した友への鎮魂の歌謡曲「母子像に祈る」「折鶴の街」を作曲
1995/7/-- 
学徒動員などで被爆死した級友への鎮魂を込め、大竹市の大竹小の1944年卒業生が被爆50周年記念文集「14歳 平和へのいしずえ」を出版へ

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