ヒロシマの記録1994 10月
94年10月1日
1994/10/1
パリのユネスコ本部に広島の被爆石を敷き詰めた「瞑想の空間」が造られることになり、日本ユネスコ協会連盟(山本卓真会長)が建設費の募金呼び掛けを始める。被爆石は広島市が提供
1994/10/1
広島アジア大会開会式出席の徳仁皇太子夫妻が原爆慰霊碑参拝。原爆養護ホーム「倉掛のぞみ園」を慰問
1994/10/1
世界平和連帯都市市長会議に賛同するメッセージが、カンボジアの首都プノンペンとパレスチナ暫定自治区ガザの両市長からそれぞれ届く
1994/10/2
広島アジア大会が開幕。開会式に先立ち、国際オリンピック委員会(IOC)のサマランチ会長が原爆慰霊碑に献花
1994/10/5
平岡広島市長が広島市内でアジア・オリンピック評議会(OCA)総会に出席し、旧市庁舎の被爆石を使った盾を広島アジア大会参加42カ国・地域の国内オリンピック委員会(NOC)などへ贈呈
1994/10/5
日本被団協の全国代表者会議が被爆50周年までに被爆者援護法の制定を求めるアピールを採択し、2日間の日程終了。「原爆投下は慈悲」との米上院決議に抗議する緊急声明を上院議長に送付することも決定
1994/10/5
連立与党の戦後50年問題プロジェクトチーム(上原康助座長)が、被爆者援護法をめぐる本格論議を開始。原爆二法の一本化と諸手当の所得制限撤廃では一致したが、「国家補償」弔慰金支給などで対立
1994/10/5
米核実験場だったビキニ、エニウェトク両島を抱える中部太平洋のマーシャル諸島共和国が、核実験で汚染され無人となった島に核廃棄物処分場を建設し、同国の経済事情改善に役立てようとの計画が浮上
1994/10/6
社会党が中執委で「国家補償の精神に基づく原爆被爆者援護法」の早期制定を求める署名活動を11月5日まで全国で展開と決定
1994/10/6
広島アジア大会に参加している選手、役員を対象にした原爆資料館見学のバスツアーが始まる。大会期間中、計4回実施
1994/10/7
中国が地下核実験。6月10日に続き1994年2回目で通算41回目
1994/10/7
平岡広島市長が7日の中国核実験に抗議文。「平和の祭典」広島アジア大会の開催中とあって、中国の選手らと交流している市民の間に戸惑い▽9日、被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前で座り込み
1994/10/9
サンフランシスコ講和条約の発効直後に原爆被害写真を特集して話題を呼んだ「アサヒグラフ・1952年8月6日号」の編集長も務めた劇作家で日本芸術院会員の飯沢匡さんが死去。85歳
1994/10/11
広島アジア大会に参加した選手、役員らへの共同通信アンケートで、原爆被害の実態に衝撃を受けながらも日本の戦争加害を指摘する声が目立つ
1994/10/11
放影研の年間運営費を200万ドル(約2億円)増額する米エネルギー省の1995会計年度予算案が、米下院で否決されたことが判明
1994/10/12
村山首相が衆院予算委員会で、原発政策について「(原発に代わって)可能な限りクリーンなエネルギーを開発すべきだが、間に合わないので、ある程度の増設はやむを得ない」と初めて原発新設容認を表明
1994/10/12
英国際戦略研究所(IISS)が「ミリタリー・バランス1994―95年」を発表。中国が規模の異なる核実験を行っているのは新型の弾道ミサイルを開発している可能性があると指摘
1994/10/12
連立与党の戦後50年問題プロジェクトチーム(上原康助座長)が被爆者援護法問題を協議。「国家補償」と弔慰金支給で自民、社会両党が従来の主張譲らず
1994/10/12
広島市内で、広島県原水協などが市民レベルの平和運動を進めようと「被爆50周年・核兵器廃絶草の根共同行動広島県実行委員会」を結成
1994/10/13
「グールディング国連事務次長が来年の国連軍縮会議を6月12日から長崎市で開催することを明らかに」-。誘致のため国連本部を訪れていた高田勇長崎県知事と本島等長崎市長から広島県などに連絡
1994/10/13
「ヒロシマ・ノート」をはじめ、被爆者の苦悩と核の恐怖を文学テーマにしてきた作家大江健三郎氏にノーベル文学賞決まる
1994/10/13
ロシア・シベリアの軍事閉鎖都市トムスクの核研究センターの近くで、解体ミサイルの爆薬が大爆発。兵士6人が負傷
1994/10/14
社会党が原爆被爆者対策特別委員会(森井忠良委員長)で、国家補償の精神に基づく被爆者援護法制定を目指すことを改めて確認
1994/10/14
広島アジア大会の選手、役員と被爆者との交流会が日程終了。4日間で11カ国の計85人が参加
1994/10/14
ウクライナ最高会議のモロス議長が、核拡散防止条約(NPT)加盟とチェルノブイリ原発閉鎖を財政支援の不足などを理由に当面拒否し、最高会議の議題に含めない方針を表明
1994/10/15
日本被団協の被爆者援護法賛同署名運動に応じた衆参院議員が、全議員の三分の二を超える
1994/10/17
平岡広島市長と本島等長崎市長が連名で、核兵器使用の違法性についての被爆地代表の意見陳述の機会を求めていた国際司法裁判所から、広島市に返事。「国家または国際機関でなければ陳述できない」
1994/10/17
モスクワ市警察とロシア連邦防諜局がモスクワで、軍事転用が可能なウラン235を混合したウラン238計27キログラムを押収。密売しようとした複数を拘束
1994/10/18
ジュネーブ軍縮会議日本政府代表部の田中義具大使が国連総会の第1委員会で演説。中国が10月7日行った核実験を批判し、包括的核実験禁止条約の早期制定求める
1994/10/18
原爆資料館の入館者が、1955年8月の開館から通算4,000万人に。4,000万人目は長崎の被爆者で、長崎原爆の爆心地近くで写真館を営む杉野秀行さん
1994/10/18
広島、長崎の被爆50周年にあたっての記念切手発行が郵政省の特殊切手発行計画に盛り込まれる。発行は1995年8月1日
1994/10/18
被爆者援護法制定で、自民党の森喜朗幹事長が国家補償の容認に柔軟な考え表明。自民党社会部会(衛藤晟一部会長)は反対の方針を再確認
1994/10/19
長崎市内で被爆し枯れかけていた柿の木の樹勢回復処置が成功し、1995年から二世の苗木づくり始まる
1994/10/19
原爆資料館が広島アジア大会に参加した選手ら関係者の入館状況を集計。大会関係者の総入館者は4,330人。選手団の約3割が見学
1994/10/19
連立与党の戦後50年問題プロジェクトチーム(上原康助座長)の被爆者援護法協議で、「国家補償」と原爆死没者への弔慰金支給をめぐり自民、社会両党がともに主張譲らず
1994/10/20
広島県内の被爆者団体や労働組合でつくる被爆者援護法制定広島緊急行動委員会(伊藤サカエ代表委員)が首相官邸に五十嵐広三官房長官を訪ね、国家補償に基づく被爆者援護法を今国会で制定するよう要請
1994/10/20
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)のビクター・サイデル共同会長が「核兵器時代の終えん」をテーマに広島市内で講演
1994/10/20
財団法人原子力発電技術機構発行の「原子力ニューズレター」10月号に、広島アジア大会の演出が「被爆のイメージを極力抑制し、さわやか」と記述されていることが分かり、広島の被爆者らが反発 1994/10/20
連立与党の戦後50年問題プロジェクトチーム(上原康助座長)の会合で、衆院法制局が被爆者援護法案への「国家補償」の明記と死没者への弔慰金支給について「他の補償問題に影響」の見解
1994/10/20
米上院が「原爆投下機は第二次大戦を慈悲深く終わらせるのに役立った」と決議した問題で、平岡広島市長が「原爆投下を肯定するような考えに怒りと悲しみを感じる」との書簡をアルバート・ゴア上院議長へ郵送
1994/10/21
中国電力が島根県鹿島町の島根原子力発電所増設を目指し、同町と関係3漁協に事前調査実施を申し入れ
1994/10/21
米と北朝鮮がジュネーブで、北朝鮮の核問題の包括的解決と両国の関係改善を定めた合意文書に正式調印。北朝鮮の核活動凍結、米の軽水炉供与など
1994/10/21
米政府が行った放射線人体実験の実態を調べている大統領調査委員会が「従来知られていた400件とは別にさらに1,000件以上の放射能実験」と中間報告
1994/10/22
被爆直後の広島、長崎の写真展示やネガ保存を通じて反核を訴えている「反核・写真運動」(520人)が東京で総会。1995年夏の写真展開催など活動方針決める
1994/10/22
広島アジア大会の演出を「被爆のイメージを極力抑制し、さわやか」と表現した原子力発電技術機構の冨士原智専務理事らが広島県被団協(伊藤サカエ理事長)を訪れ、陳謝
1994/10/24
核禁会議(磯村英一議長)が韓国の被爆者を診療する第21次訪韓医師団を派遣
1994/10/24
社会党の戦後50年問題特別委員会(上原康助委員長)が役員会で被爆者援護法をめぐる党の最終方針決める。「国家補償」の明記と死没者への弔慰金支給は譲れないことを確認
1994/10/25
第6回南米被爆者巡回医師団の広島県関係者4人が広島を出発。26日に東京で長崎県の医師らと合流し、南米へ
1994/10/25
連立与党の戦後50年問題プロジェクトチーム(上原康助座長)で、被爆者援護法について自民党が「国家補償」に代わる表現として新たに「国家の責任」を明記する妥協案を提示。社会党は譲歩せず 1994/10/26
野党会派「改革」の厚生部会・原爆被爆者援護法プロジェクトチーム(粟屋敏信座長)が初会合を開き、被爆者援護法案について「国家補償的配慮」に「非核の願い」を加えた法制化の検討で一致
1994/10/26
原爆被爆者に見られた脱毛症状は、髪の毛が抜けたのではなく、被曝線量に応じて毛髪が細くなり折れたらしいことが、放影研放射線生物学部の京泉誠之免疫研究室長の研究で判明
1994/10/26
米スミソニアン航空宇宙博物館が、原爆投下展の詳細な展示計画書を公表。これまでの修正案よりも、中国やアジアへの日本の侵略を強調し、原爆投下が米兵の犠牲者増大を防いだとの見解を前面に。広島や長崎の被爆者の写真や遺品は大半を残したと説明
1994/10/27
被爆者援護法の制定問題で、社会党が「国家補償」の代わりに「国家の責任」の明記を受け入れる方針を打ち出したことに対し、党内から不満が噴出
1994/10/27
日本被団協が援護法協議に対する見解を発表。「被爆50周年に何としても国家補償の援護法の実現を図る」として国民の協力を呼び掛け
1994/10/28
原水禁国民会議が社会党本部で「原爆被爆者援護法制定要求緊急集会」を開き、自民党案の「国家の責任」を受け入れず、あくまでも「国家補償」の精神に基づく援護法実現を目指すことを確認
1994/10/29
長崎市で開いた長崎原爆被災者協議会(山口仙二会長)のシンポジウムで「長崎原爆の被爆者に1980年以降、良性の脳腫瘍の一種である髄膜腫が急増」と長崎大医学部の貞森直樹講師らが発表
1994/10/29
下関市内で、10数年にわたって休眠状態だった下関原爆被害者の会(山口県被団協下関支部)が再建総会。被爆者ら100人が出席
1994/10/30
広島赤十字病院看護婦養成所に1945年入学し、被爆死した看護婦生徒らが広島市内で追悼会