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ヒストリー

ヒロシマの記録1994 11月


1994/11/1
広島市の平和大通り将来構想検討委員会が初会合。将来の交通量予測に基づき、市側が車道の6車線化を図る案などを提示
1994/11/1
社会党の森井忠良国対委員長(広島2区)が、被爆者援護法案で「国家の責任」に条件付き容認を示唆し、弔慰金では自民党が譲歩するとの見方を示す
1994/11/1
広島市内で国家補償に基づく被爆者援護法を求める緊急集会。社会党広島県本部や広島県被団協(伊藤サカエ理事長)、広島県原水禁などの主催で、170人が参加。「あくまで国家補償を」という集会決議を採択
1994/11/1
栗山尚一駐米大使が、スミソニアン航空宇宙博物館の原爆投下展問題で「原爆被害の恐ろしさと、二度と核兵器を使ってはならないとの日本人の悲願をこの機会に分かってもらいたい気持ちが強いが、展示の中身に大使館が注文をつける筋合いではないし、原爆投下についての当否を争う立場に日本政府はない」と表明
1994/11/2
被爆者援護法で政府が打開案を示し、与党が合意。「国家補償」の文言は「国の責任」とし、「特別葬祭給付金」10万円を原爆死没者の遺族で被爆者健康手帳を持っている人に支給する案。政府は生存被爆者対策の一環と説明。広島の被爆者団体に強い反発や失望広がる
1994/11/3
バチカンで第6回世界宗教者平和会議(WCRP)が開幕。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が「宗教を紛争の口実としてはならない」と記念講演
1994/11/3
6月に20年間の活動の歴史を閉じた長門市大津原爆被爆者友の会(山口県)が、長門市にある広島・長崎原爆殉難平和祈念碑を見守る講として、被爆二世を加えて再スタートすることになり、長門市内で発会式
1994/11/5
広島県被団協(伊藤サカエ理事長)が広島市内での理事会で、政府・連立与党合意の被爆者援護法案の修正を求めることを確認。声明文を村山首相らへ郵送
1994/11/5
広島市安佐北区の市立亀崎中学校の生徒会が、文化祭の写真展でチェルノブイリ原発事故の被災児らの窮状を紹介。現地の子供らに学用品を贈る運動開始
1994/11/6
共同通信が入手した中国の有力な民間雑誌「争鳴」軍事特集号(第2号)によると、中国科学院の何祚辱教授(理論物理学)が「中国が最小限の核兵器保有で最大限の抑止効果を上げるため、核攻撃の目標を仮想敵国の人口が集中している大都市に設定」と証言
1994/11/6
国家補償を明文化しなかった被爆者援護法の政府案に反発し、広島県被団協(金子一士理事長)と広島市原水協が原爆慰霊碑前で抗議の座り込み
1994/11/7
山口県が中国電力の上関原発計画に伴う立地環境調査で海域の占用を許可。調査に必要な許認可がすべて整う
1994/11/7
被爆者援護法問題で、韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長が「われわれにも日本の被爆者と同様の対応を」と五十嵐広三官房長官に要望
1994/11/7
ウォルター・モンデール駐日米大使が長崎市を訪問、原爆資料館などを見学
1994/11/8
国会議事堂前の憲政記念館で「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真・資料展」が開幕。10日まで。一般入場者2,000人、国会議員は49人
1994/11/8
日本被団協が国会周辺で、国家補償に基づく被爆者援護法の制定を求める「11月大行動」
1994/11/8
関西新国際空港に輸入されたフィンランド産の薫製トナカイ肉42キロから、放射能の暫定濃度を超えるセシウム134と同137を検出
1994/11/8
島根県鹿島町の中電島根原子力発電所の放射能漏れ事故を想定した原子力防災訓練が、鹿島町や松江市などで実施。2年ぶり6回目。自治会役員らが初めて見学
1994/11/8
野党の衆院統一会派「改革」の被爆者援護法プロジェクトチーム(粟屋敏信座長)が会合。政府・与党が合意した援護法案への対応を協議し、「国家補償的配慮」と「すべての死没者への特別給付金」の実現を目指す
1994/11/9
原爆投下直後の広島を調査し、日本で最初に「原爆」と認定した大本営報告書の草案を、元陸軍参謀の新妻清一さんが原爆資料館に寄贈
1994/11/9
長崎、諫早市民が核兵器廃絶を目指して86年から毎月9日に行う座り込みが100回目
1994/11/10
広島平和文化センターが市民平和友好訪中団を中国へ派遣。1988年から相互訪問している中国の民間平和団体、中国人民平和軍縮協会と交流
1994/11/10
米学士院のブルース・アルバーツ総裁が広島市を訪れ、平岡市長と懇談。「放影研の重要性を米政府に訴えていきたい」と語る
1994/11/10
米国原爆被爆者協会が、日本国籍を持つ在外被爆者に被爆者特別措置法に基づく諸手当の支給などを求める要望書を村山首相に提出へ。友沢光男会長が広島市役所での記者会見で表明
1994/11/11
南米5カ国を巡回して被爆者の健康診断をした広島県など派遣の医師団が県庁で会見。被爆者の高齢化などを反映し、受診者は5カ国合わせて98人と、2年前の前回を9人下回る
1994/11/12
中国電力の上関原発計画に絡み、周辺市町の職員や議員を対象に原発講座を予定していた山口県が、反対派の抗議で15日からの講座を延期。推進派に偏っていた講師陣に反対派も入れ実施へ
1994/11/12
戦時中の中国人強制連行を問い直そうと「強制連行された中国人・被爆者遺族を広島に招く実行委員会」が広島市内で発足。広島県加計町の安野発電所工事に連行された生存者らの招待に向け、カンパの呼びかけを始める
1994/11/12
連合国軍占領下の1951年に京大の学生らが京都市内のデパートで開いた「総合原爆展」を語る会が広島市内で開かれ、当時の関係者26人が参加
1994/11/12
佐世保港に日本で初めて原子力潜水艦が寄港して30周年になるのを記念して、長崎県労評などが佐世保市内で軍縮フォーラム開催
1994/11/14
被爆者援護法案の修正を求めて「ヒロシマ・ナガサキ連帯会議」と「被爆者援護法制定緊急行動委員会」がそれぞれ広島市内で協議。政府、国会への要請行動や集会開催などを決定
1994/11/15
政府が被爆者援護法案要綱をまとめ、社会保障制度審議会(隅谷三喜男会長、10人)に諮問。前文に「国の責任で高齢化の進む被爆者への総合的な援護対策を講じる」と明記し、死没者への特別葬祭給付金支給や平和祈念事業(仮称)の実施を盛り込む。施行は1995年7月1日。22日に閣議決定、衆院へ提出へ
1994/11/15
厚生省が、被爆者援護法案要綱で規定した特別葬祭給付金の支給対象を、「葬祭料」を受けていない旧一般被爆者健康手帳の遺族を救済するため、一部の遺族に限り1969年から74年に拡大すると決定
1994/11/15
野党の衆院統一会派「改革」が、「国家補償的配慮」と「すべての原爆死没者への特別給付金の支給」を盛り込んだ独自の被爆者援護法案提出を正式決定
1994/11/16
ウクライナ最高会議が、核拡散防止条約(NPT)への条件付き加盟を賛成多数で決議。決議の発効は、核保有国がウクライナの安全を保障する国際法上拘束力のある文書に調印した後と規定
1994/11/16
広島市内で始まった日本内分泌学会で、広島大の武市宣雄講師がチェルノブイリ原発事故の被災地域で急増している小児甲状腺がんについて「ヨード欠乏状態だったところへ、大量に放出された放射性ヨードが甲状腺に蓄積されために発生した可能性が高い」と報告
1994/11/16
米民間シンクタンク「エネルギー環境研究所」が、核兵器解体で余るプルトニウムは原子炉で燃やさず、核兵器に使いにくいガラス固化体として貯蔵すべきとの報告書を発表
1994/11/16
「イスラエルが約200個の核兵器を所有している可能性がある」と米軍事アナリストが英軍事情報専門誌「ジェーン・インテリジェンスレビュー」に寄稿
1994/11/17
社会保障制度審議会(隅谷三喜男会長)が、被爆者援護法案の政府案を「おおむね了承だが、原爆被害の実態調査、研究の努力を」との答申を井出正一厚相に提出
1994/11/17
米スミソニアン航空宇宙博物館の原爆投下展問題で、原爆に詳しい米の歴史学者や作家らが、復員軍人らの政治圧力で修正された現在の計画は原爆投下を正当化する「明白な歴史浄化の試み」との抗議書簡をスミソニアン協会のマイケル・ハイマン理事長に提出
1994/11/17
中国ハルビン市の軍用工場跡に大量の放射性物質ラジウムの汚染物が20数年間にわたって放置され、最近ようやく回収-。中国青年報が報道
1994/11/18
国連総会第1委員会が、核軍縮分野で日本が初めて単独で提出した核兵器全面廃棄をうたった核軍縮要請決議案を賛成多数で採択。核廃絶を目指した国連決議の採択は国連史上初めて。ロシア、中国は賛成、米、英、仏は棄権
1994/11/19
創立120周年を迎えた長崎市山里小学校で、被爆旧校舎をしのぶ石碑を除幕
1994/11/20
日本原水協が、ビキニ環礁で行われた米原水爆実験で被災したマーシャル諸島に「核実験被害告発・救援調査団」を派遣。放射能後遺症に苦しむ島民の診療や被災実態を調査
1994/11/20
原爆小頭症患者20人と家族でつくる「きのこ会」(長岡千鶴野代表)が広島市内で本年度下期総会。広島、山口両県から患者4人を含む7家族11人が集まり、患者の50歳の誕生日を祝う会を1年繰り上げ来春開催と決定
1994/11/21
広島市内で放医協主催の講演会。チェルノブイリ原発事故による住民の健康調査に当たっているウクライナ放射線医学研究センターのアナトリー・ロマネンコ所長が「周辺住民の健康状態は悪化し、不安や精神的ストレスにさらされている」と講演
1994/11/21
米スミソニアン航空宇宙博物館から広島市に展示台本の修正版が届く。当初案に比べ、アジア・太平洋戦争での旧日本軍の残虐性を強調。広島、長崎両市から貸与を受ける被爆資料の展示点数は減り、終戦後の冷戦や核軍拡競争の歴史展示も大幅に薄める。広島市は、被爆者や学識経験者の意見を聞いて被爆資料貸与について最終判断する方針
1994/11/21
「ロシアが旧ソ連時代から30年以上にわたり、国内で発生した全放射性廃棄物のほぼ半分に相当する約30億キュリー分の廃液を地中に直接注入」-。米紙ニューヨーク・タイムズが報道
1994/11/22
政府が被爆者援護法案を閣議決定し、国会に提出。野党統一会派「改革」も24日に対案を提出することを与党側に通知
1994/11/22
平和記念公園の被爆アオギリの二世(苗)が来春、被爆50周年を記念して当初植えられていた中区東白島の中国郵政局に里帰りへ
1994/11/22
東広島市被爆資料保存推進協議会(五島正三会長)が全国の都道府県の被爆者団体を対象に被爆体験記の出版などについてアンケート調査した結果、ほとんどの団体が既に体験記を発刊し、新たに出版を予定しているところも多いことが判明
1994/11/22
政府が被爆者援護法案を国会に提出。広島では「政府案は国家補償ではない」と抗議する座り込みや集会
1994/11/23
米スミソニアン航空宇宙博物館に、広島原爆投下機エノラ・ゲイの胴体が運び込まれる
1994/11/23
ユネスコの世界遺産条約に詳しいポーランドのアンゼイ・トマゼブスキー教授が原爆ドームを視察し「ドームは世界遺産への登録条件を完全に満たしている」と世界遺産化を支持
1994/11/23
カザフスタンに大量の原爆用濃縮ウランが無防備の状態で保管。米が米国内へ移送。高濃縮ウランの量は約600キロで、原爆20個分以上
1994/11/24
衆院の野党統一会派「改革」が、「国家補償的配慮」を盛り込んだ独自の被爆者援護法案を提出
1994/11/24
1950~60年代に旧ソ連が行った核実験を撮影したビデオを京大経済研究所の塚谷恒雄教授(環境経済学)らのグループが入手し公開
1994/11/24
長崎県が被爆50周年記念事業を発表。6月の「国連軍縮長崎会議」、8月の「国際市民フォーラム・長崎」を核にした13事業
1994/11/25
全国の法華宗の僧侶や檀信徒ら1,500人が、原爆犠牲者の50回忌法要のため広島市内で平和祈願の行進
1994/11/25
1994年版の原子力白書を閣議が了承。「日本が所有する分離プルトニウムの量は1万881キロ」と初めて詳細に公表
1994/11/25
日本ユネスコ協会連盟と広島市が主催し、東京で原爆ドームの世界遺産化について考える「世界遺産シンポジウム94」開く
1994/11/25
「スウェーデンが1970年代までひそかに核兵器開発を行い、現在も首都ストックホルム郊外アゲスタに保有する地下プルトニウム生産炉は数カ月で運転再開が可能」-。米紙ワシントン・ポストが報道
1994/11/26
広島県被団協(金子一士理事長)などが広島市内で、国家補償を明記した被爆者援護法の制定と核兵器廃絶を訴える「11・26被爆者と県民のつどい」。被爆者ら600人が出席
1994/11/28
広島市出身の作家、故梶山季之氏の遺志を継いだ「梶山季之基金」が、広島の画家新延輝雄さんが被爆50年を記念して描いた「原爆忌はるかに」を市に寄贈。原爆資料館東館で除幕式
1994/11/29
秋葉忠利、小森龍邦両衆院議員ら社会党と新党・護憲リベラル所属の衆参両院議員12人が、被爆者援護法案への「国家補償の精神に基づく」との趣旨の明記や村山首相による政府の誠実な弔意表明を求める声明を発表
1994/11/29
衆院厚生委員会(岩垂寿喜男委員長)が、政府と野党統一会派「改革」がそれぞれ提出した被爆者援護法案をめぐり、参考人から意見聴取。政府案が特別葬祭給付金の支給対象を被爆者に限定している点について、被爆者代表は「新たな差別につながる」と不満表明。「一般戦災者との均衡を保つため妥当」との意見も
1994/11/30
衆院厚生委員会が広島市内で被爆者援護法案についての地方公聴会。陳述人は重松逸造放影研理事長、小林寛治連合広島事務局長、石田明全国原爆被爆教職員の会会長、伊藤サカエ広島県被団協理事長。伊藤サカエ氏らは「あくまでも国家補償の明記を」と陳述。長崎でも実施

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