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ヒストリー

ヒロシマの記録1994 12月


1994/12/1
原爆記念切手発行で米郵便公社が「第二次世界大戦の歴史の全体像を提供するのが目的。出来事に対する価値判断は下していない。原爆投下のような重要な出来事を排除することは怠慢行為」と声明
1994/12/1
チェルノブイリ原発事故で被曝したウクライナの子供ら6人が、府中市の「ジュノーの会」の招きで来日、広島で検診
1994/12/1
衆院厚生委員会で被爆者援護法案を賛成多数で可決
1994/12/2
衆院が政府提出の被爆者援護法を自民、社会、さきがけの与党3党と共産党の賛成多数で可決。「生存被爆者対策の一環」と位置づけ、現行原爆二法を一本化し54条で構成。前文で「国の責任」を明記、原爆死没者の遺族に対し特別葬祭給付金(1人10万円)を支給。施行日は1995年7月1日。1959年11月12日、社会党が原爆医療法の一部改正案を提案し「名称を被爆者援護法とする」としたのが初めて。以来、1974年3月29日に当時の全野党が「被爆者援護法案」として共同提案するなど過去24回提案
1994/12/2
ロシア原子力エネルギー省が「核閉鎖都市トムスク7など2カ所で生産してきた核兵器用プルトニウムの生産を、1994年10月1日で完全停止」と発表
1994/12/2
英核実験で強制移住させられた先住民アボリジニーに対し、オーストラリア政府が1,350万オーストラリアドル(約10億5,300万円)を支払うことで和解。実験場となった土地をアボリジニーに返し、和解金で保健サービスの充実、牧場や道路、水道設備を整備
1994/12/2
村山首相が米の原爆切手で「こんな国民感情を逆なでするようなことは困る」と不快感示す。平岡広島市長も「核兵器の使用は理由のいかんにかかわらず許されるべきものではない。まことに遺憾」とコメント発表
1994/12/4
広島市民の手作り一座「一誠一座」(南一誠座長)の「消えた街~天神町一番地」の出演者オーディション
1994/12/5
ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンと米がブダペストでリスボン議定書(1992年5月調印)に基づき批准文書に調印、第1次戦略兵器削減条約(START1)が正式発効。ウクライナは核拡散防止条約(NPT)に正式加盟
1994/12/5
広島県の戦後50周年記念事業検討委員会(座長、橋口収県商工会議所連合会会頭)が、旧陸軍被服支廠の活用案まとめる。「収蔵展示」「文化交流」の機能をもたせ瀬戸内海文化博物館、音楽芸術センター、県民アートスクエアを構想。12月12日、藤田雄山知事に提出
1994/12/6
広島市の原爆資料館が、被爆建造物調査で従来の38件に加え、新たに多聞院鐘楼など44件を確認。1995年発行の「被爆建造物総合記録書」に掲載
1994/12/7
外務省、広島市などが主催し広島市でシンポジウム「外交の窓INヒロシマ」。斎藤邦彦外務事務次官、平岡広島市長らが討論。核兵器の違法性、核拡散防止条約(NPT)延長をめぐり平行線
1994/12/7
日本被団協がクリントン米大統領に原爆切手発行で抗議声明送る
1994/12/7
参院厚生委員会が被爆者援護法案について参考人から意見聴取。熊取敏之放射線影響協会理事長、横川嘉範東友会事務局長、岩佐幹三日本被団協専門委員、池田真規日弁連被爆者援護法調査研究委員
1994/12/8
国際司法裁判所の核兵器国際法違反問題で南太平洋のナウル共和国が「広島、長崎市長が証人として出廷、証言してほしい」と申し出。広島県原水禁が伝える
1994/12/8
米郵便公社が原爆記念切手の発行中止を決める。「原爆投下が大戦終結を早めたとの見方に同意するが、別の図柄でも適切に表現できる」(マイヤーズ大統領補佐官)との見方から「クリントン大統領が『そうする(図柄変更)のが適切』と申し入れ」
1994/12/9
被爆者援護法が参院本会議で自民、社会、共産、二院クラブ、民主改革連合の一部の賛成多数で可決、成立。10日、中国新聞が援護法の歴史特集
1994/12/9
2つの広島県被団協が、援護法成立で「国家補償を求め運動を続ける」と声明
1994/12/10
原爆被害者相談員の会(代表、鈴木勉広島女子大教授)が、広島YMCAでパネル討論「どうしても国家補償-あるべき被爆者援護法を求めて」を開く
1994/12/13
米極東軍司令部が朝鮮戦争初期の1950年、韓国内の北朝鮮占領区域に対し原爆投下を検討-。12日公表された米国防総省の秘密文書公開で明らかに
1994/12/15
国連総会が、核兵器の違法性を国際司法裁判所に問うかどうかについての決議を賛成78、反対43、棄権38で採択。米、英、仏、ロは「核兵器の違法性は個々の状況の中で判断されるべき」として反対。日本は「核保有国と非同盟諸国が対立する司法判断の要求は事態を混乱させる」と棄権。中国は採決に加わらず
1994/12/15
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)米国支部、「社会的責任を果たす医師の会」など米国内17団体がスミソニアン航空宇宙博物館に「原爆投下の是非をめぐる正確な歴史的説明や、被爆の惨状を正確に伝える写真の展示を復活すべき」と申し入れ
1994/12/15
国連総会が、日本が提案した核兵器の全面的廃絶をうたった核軍縮要請決議を賛成163、反対0、棄権8で採択。棄権は米、英、仏、北朝鮮。ロ、中は賛成
1994/12/16
芸備地方史研究会(会長、渡辺則文広島修道大教授)が、旧広島大理学部1号館の全面保存、活用を平岡広島市長に申し入れ
1994/12/19
広島県被団協(伊藤サカエ理事長)が、組織強化特別委員会を開き原爆被爆者に限っていた会員を遺族や被爆二世にも拡大の方針決める
1994/12/20
1995年度予算案の大蔵原案で、被爆者対策費は1994年度当初比9.6%増の1,591億2,100万円。原爆死没者慰霊施設の建設は準備が進んでいる広島市を先行実施するとし基本設計費3,300万円が要求通り認められる。放影研の移転経費は概算要求段階で見送り
1994/12/21
米フロリダ州の民間出版社が、発行中止になった原爆切手の模造シールを製作。販売始める。同社社長「過去は過去として記憶すべき」
1994/12/21
広島市が米スミソニアン航空宇宙博物館への資料貸し出しで「被爆者の声を聞く会」。「変更案は原爆投下の必然性が強調されるなど問題はあるが、改善意見をつけて貸し出すべき」との考えで一致 1994/12/22
米の外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」が1995年1月9日発行号で、「広島、長崎への原爆投下は日本の降伏を早める目的で決断された訳ではない。日本に懲罰を加えることが本来の目的の一つ」とするスタンフォード大のバートン・バーンスタイン教授の論文を紹介
1994/12/22
映画「原爆の子」の女優乙羽信子さんが、肝不全のため死去。70歳。本名新藤信子。米子市出身
1994/12/26
広島平和文化センターが原爆関係文献調査収集委員会を発足させ、所蔵漏れの文献収集へ
1994/12/27
長崎市が市原爆被災資料協議会を開き、米国立スミソニアン航空宇宙博物館の原爆投下展問題で、95年1月、同博物館へ調査団派遣決める
1994/12/-- 
長崎市が被爆50周年企画で始めた県外原爆展が好評。地元の戦争展と組み合わせ実施し、1994年は佐賀、高知、釧路で開く
1994/12/-- 
米郵便公社が1995年に発行する第二次大戦記念切手シリーズの1つとして原爆のキノコ雲を図案化し「原爆が戦争終結を早める、1945年8月」と記した切手の発行決める
1994/12/-- 
財団法人原子力発電技術機構の広報誌「原子力ニューズレター」が、被爆者を取材した記事や陳謝文を掲載した11月号を発行。10月号で広島アジア大会を「被爆のイメージを極力抑制した大会の演出がさわやか」と記し被爆者らから反発を受けていた
1994/12/-- 
国際環境団体グリーンピースが、世界最大規模のロシア東シベリア・チタ州クラスノカメンスクにあるウラン鉱山を調査。深刻な汚染がわかる
1994/12/-- 
広島市の平和記念式典を世界にラジオで伝えている「ヒロシマデー・ラジオ・プロジェクト」(世話人ロナルド・クライン広島女学院大助教授)が、英語の実況放送を収録したテープ作製
1994/12/-- 
広島県文化団体連絡会議の運営委員長、久保浩之さんが、1995年1月1日の朝、平和記念公園内の「はだし供養」への参加を呼びかけ
1994/12/-- 
広島刑務所が中国大連市の干瑞雪さんに被爆の証明となる「在監証明」を送っていたことが判明。干さんは広島県加計町の安野発電所建設に強制連行された後、広島刑務所に送られ被爆-と主張。同ケースでは6人目
1994/12/-- 
原水禁国民会議の国際担当の田窪雅文氏がロシア政府の公開資料を基に旧ソ連の核爆発の全容を解明。1949年から90年までに715回、うち石油掘削などへの使用が115回。26日発売の「科学と人間」に発表。セミパラチンスク467回(うち地下343回)、ノバヤゼムリャ132回(同42回)

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