ヒロシマの記録1993 3月
93年3月1日
1993/3/1
原水禁国民会議が静岡市内でプルトニウム問題国際フォーラムと全国集会。ハンフォード核工場で放射線汚染問題に取り組むハンフォード教育・行動連合のジェームズ・スミスさんも参加。広島市内で日本原水協が集会
1993/3/1
広島市内で被爆語り部など15団体が「被爆体験証言者交流の集い」を開き意見交換
1993/3/1
市民団体の「平和公園のありかたを問う86人委員会」(李起雨代表)が、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を現状のまま公園内に移設するよう平岡市長に申し入れ
1993/3/1
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が「北朝鮮は1995年末までに4個から7個の核兵器を製造できるプルトニウムの蓄積が可能」との報告書。イスラエルは既に核弾頭100個分、インドは60個分、パキスタンは10個分の核物質を保有と推定
1993/3/2
原水禁国民会議が全国委員会で、8月の原水禁世界大会の運動方針から「核兵器廃絶」の文言を使わないよう提案
1993/3/2
平和記念公園の工事で江戸時代の墓石3基が見つかる。江波二本松に移転の慈仙寺が引き取る
1993/3/2
米シアトル市の日系二世で教諭のアキ・クロセさんが広島市で「米の平和教育」をテーマに講演
1993/3/5
広島市内で放医協が主催し海外の被曝事故や医療協力をテーマに講演会。放射線影響研究所の阿波章夫遺伝学部長が南ウラル・チェリャビンスクの放射性廃棄物事故について「事故を知らされずに移住させられた住民に、免疫低下や血球減少など慢性放射線症が出たようだ」と報告
1993/3/5
広島市に滞在中のカザフスタン放射線医学生態学研究所のアレクサンダー・セケルバエフ副所長が、広島大原医研で「セミパラチンスク核実験場周辺の子供に白血病多発」と報告
1993/3/7
広島市の平和記念公園で故峠三吉氏をしのぶ没後40年の三吉忌・碑前祭。水戸市在住の姉の今井千栄子さんら130人が参列
1993/3/9
マルタの「日本友の会」のエドワード・サムート会長が原爆慰霊碑に献花
1993/3/9
広島刑務所が中国長沙市の張文彬さんに1992年12月2日付で在監証明書を発行。1945年5月14日から8月8日までの在所を証明し、被爆者健康手帳の取得に道。張さんは44年4月、中国河北省から強制連行され、新潟港の荷役現場で働き、抗日活動などで逮捕、収監
1993/3/9
広島市が原爆ドームから崩れ落ちた被爆レンガを2月中旬に京都府舞鶴市に永久貸与していたことが判明。「原風景を壊す」と批判の声
1993/3/9
原爆遺跡保存運動懇談会が広島県教委に、頼山陽記念館は現状保存を基本に補修するよう要望
1993/3/10
広島赤十字・原爆病院旧本館にある原爆の爆風で曲がった窓枠について、日赤広島県支部が「切り取って病院敷地内で移転保存」と表明
1993/3/10
広島県山県郡加計町の安野発電所建設現場に強制連行され、広島刑務所で被爆したとされる中国人を新たに3人確認-。市民団体「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」(牛尾美保子世話人)が発表。連行され被爆の中国人は計5人に。河北省の鄭光遠、孟昭恩さん、山東省の呂学文さん
1993/3/12
北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)の核特別査察要求に反発し核拡散防止条約(NPT)脱退を宣言 1993/3/13
「語り部」活動など原水爆禁止運動に打ち込んできた渡辺千恵子さんが心不全のため死去。64歳。「長崎原爆乙女の会」を結成
1993/3/13
広島県被爆二世団体連絡協議会(栗栖吉三郎代表)が、西本守事務局長の後任に高教組原爆被爆二世教職員の会副会長の横丁光紀氏を選ぶ
1993/3/13
広島赤十字・原爆病院で、取り壊される旧本館のお別れ式。被爆当時、甲種救護看護婦養成所2年生だった井口トシエ、中北ツユ子、五條美恵子さんらが往時を振り返る。1939年、日本赤十字広島支部病院として完成
1993/3/14
原爆資料館の「人影の石」をテーマにした一人オペラ「のこした影」が廿日市市中央公民館で上演。原作は同市内の主婦山本泰子さんの童話集「つるのとぶ日」。大阪の劇作家かたおか・しろうさんが脚本を書き、神戸大の中村茂隆教授が作曲。関西二期会の岡田征士郎さんが主演
1993/3/14
長崎市の旧浦上刑務支所で被爆した中国人遺族を8月9日の平和祈念式典に招待する「中国人原爆犠牲者遺族を招く会」の結成集会が長崎市内で開催
1993/3/16
広島平和文化センター発行の「ヒロシマ読本」で、被爆した朝鮮人が「労務対策による集団移住者」と記述され、「強制労働」や「徴用」などの表現がないと市会で指摘。同センターが訂正へ
1993/3/16
東広島市原爆被害者の会(木村孝義会長)が建立した原爆死没者慰霊碑の除幕式。厚生省の「原爆死没者慰霊等事業」助成に基づく広島県内初の碑
1993/3/17
米のスミソニアン協会・国立航空宇宙博物館が被爆50周年に原爆投下をテーマに展示会を計画し、広島市に被爆資料の貸与を求めていることが判明。原爆投下機エノラ・ゲイも復元展示されることから、市は「原爆の威力を誇示する内容になる恐れ」と貸与に慎重
1993/3/17
原爆ドームの被爆レンガが京都府舞鶴市に永久貸与された問題で、広島市が被爆資料の貸し出し基準を成文化へ
1993/3/19
スウェーデンの「平和のための芸術家の会」会長で俳優のヨルゲン・ランツ氏が、広島市を訪れ同国の幼稚園児、保育園児が折った1万羽を超す折りづるを原爆の子の像にささげる
1993/3/19
広島平和文化センターの「平和に関するデータベース」構築検討委員会(委員長、阿部耕一朗修道大教授)が最終会合。原爆の開発史や被害の実態、文学、被爆者の手記などのデータベースをつくり、被爆50周年に一部稼働するよう提言
1993/3/20
広島県原水禁などが、広島市内で反プルトニウムを訴える「3・21平和のためのヒロシマ行動」集会 1993/3/20
ピーター・バトラー氏ら英下院議員4人が原爆資料館を見学し、原爆慰霊碑に参拝
1993/3/20
1950年代後半、都内の陸上自衛隊幹部学校で、核兵器の使用を想定した図上演習などの教育が行われていたことが判明
1993/3/20
倉敷市原爆被爆者会連合会(山本忠孝会長)が同市内の円福寺に原爆慰霊碑を建立。岡山県内では1972年に高梁市に建立の県原爆慰霊碑、岡山市(2カ所)、津山市に続き5基目
1993/3/20
原爆で同級生の半数を失った広島市幟町国民学校の1945年卒業生50人が還暦記念同窓会。同級生234人中、95人が被爆死しその後も被爆がもとで10数人が死亡
1993/3/21
ロシア原子力潜水艦がバレンツ海のロシア核実験場近くで米原潜と衝突
1993/3/22
韓国慶尚北道の被爆者21人が浄土真宗本願寺派安芸教区の招きで来日。被爆者健康手帳を申請へ
1993/3/23
厚生省の委託を受け原爆に関連する資料の目録作成などを検討している「原爆資料および情報ネットワーク委員会」(委員長、吉沢康雄東大名誉教授)が、「1993年度から原爆資料マルチメディア・データベース・システムの開発に乗り出す」などの中間報告まとめる
1993/3/24
ルポ「ヒロシマ」の著者、米作家ジョン・ハーシー氏がフロリダ州の自宅で死去。78歳。1946年と85年に広島を訪問、いずれも被爆者にインタビューし「ヒロシマ」「ヒロシマその後」にまとめる
1993/3/24
南アフリカのデクラーク大統領が「1989年末までに6個の原子爆弾を製造し、その後すべて解体」と表明。1974年、ボタ前大統領の直接指揮で開発開始。「当初から核兵器を使用する意図はなく、抑止が目的」
1993/3/24
「旧ソ連海軍が1959年以降、原子力潜水艦の原子炉や核廃棄物など計250万キュリー相当を海に投棄したと認めた」-。英紙フィナンシャル・タイムズが報道。廃棄原子炉は計18基
1993/3/27
1992年秋に米国原爆被爆者協会(本部サンフランシスコ)から分裂した「米国広島・長崎原爆被爆者協会」(本部ロサンゼルス)が発足式。会長は寺西啓中氏
1993/3/29
広島市の「原爆の子の像」に、折りづるをささげる専用台が完成
1993/3/29
広島市の人事異動で、原爆資料館長を10年間務めた川本義隆さんが退職。9代目の新館長に競輪事務局長の原田浩さん。川本さんは旧広島一中1年生の時、爆心地から800メートルの校舎内で被爆。原田新館長は6歳の時、広島駅で被爆
1993/3/30
東京都議会が被爆者援護法制定を求める意見書を全会一致で可決。都道府県では26番目
1993/3/31
チェルノブイリ原発事故被災者の治療法を学ぶため来日中のチェコの精神医ミハエラ・ペチシコバさんが、「広島の女上演委員会」(村井志摩子代表)の招きで広島市を訪れ、原爆資料館を見学
1993/3/31
長崎市の平和公園聖域化検討委員会が、爆心地公園を聖域化対象区域とする報告書をまとめ、本島等長崎市長に提出(長崎新聞3・28)