ヒロシマの記録1993 4月
93年4月1日
1993/4/1
広島赤十字・原爆病院旧本館の取り壊し始まる
1993/4/1
放射線影響研究所が「新施設検討委員会」を開き、日米設計業者でまとめた「6階建て、延べ1万2,000平方メートル」の基本構想示す。広島大工学部跡に建設
1993/4/1
国際環境保護団体グリーンピースが、旧ソ連海軍が極東と北極海に近い海域で、原子力潜水艦の原子炉18基を1966年から91年まで投棄していた事実を示すロシア政府の報告書を入手し発表。日本海へは1978年に2基。85年、極東部チャズマ湾で原子炉の暴走事故が発生、10人が死亡し周辺地域が汚染された事故も明らかに
1993/4/1
社会党広島県本部が「被爆50周年に向けての提言」(被爆者援護・平和政策要綱)の原案まとめる。国家補償に基づく被爆者援護法制定を最大課題とし、「ヒロシマ平和基金」「ヒロシマ平和賞」、修学旅行生を受け入れる「広島子ども会館」建設などを盛り込む
1993/4/2
呉原爆被爆者友の会が創立20周年記念誌「被爆者と戦争を考える子どもたち」を出版
1993/4/4
クリントン、エリツィン両大統領が「多国間での核実験禁止に関する交渉を近日中に開始すべき」と呼び掛ける共同声明を発表
1993/4/5
旧ソ連原潜の核廃棄物投棄問題で、政府が科学技術庁に技術的評価検討委員会の設置決める
1993/4/5
セミパラチンスク旧核実験場を中心にカザフスタン国内に放射性廃棄物2億3,300万トンが指定投棄場所以外に放置。同国の調査をタス通信が伝える
1993/4/5
米スミソニアン協会・国立航空宇宙博物館のマーティン・ハーウィット館長が広島市役所を訪れ、被爆資料の貸与を平岡市長に正式要請。市長は即答避ける。館長「1945年8月6日に広島で何が起こったのか歴史を正確に伝え、来館者が何らかの教訓を学ぶことが展示の目的。広島の苦しみを伝えるには実際に被爆した資料展示が欠かせない」。市長「原爆で受けた苦しみを十分に表現できる展示になるかどうか現段階では疑問」
1993/4/5
米エネルギー省が、核兵器関連計画費や原子力研究開発計画費を大幅に削減した1994年度予算案を発表。核汚染除去費が核兵器生産予算を上回る
1993/4/5
中国新聞が放射性廃棄物処理が本格化した青森県六ケ所村の現状をルポ
1993/4/6
ロシア西シベリアの軍事閉鎖都市トムスク7の核燃料施設で、使用済み核燃料の再処理中に放射性廃液の貯蔵タンクが爆発。廃液が周囲約200平方キロを汚染。グリーンピース・ロシア支部は38人が入院と伝える
1993/4/9
中国新聞が、核の街脱皮進む米テネシー州オークリッジの現況ルポ。1942年9月に農家1,000家族を移転させ、2万3,800ヘクタールの地域に秘密都市が誕生、人口7万5,000人に。地域名は「X用地」とされ地図にも載らず。巨大なウラニウム濃縮工場のK25は現在、廃棄物貯蔵所に、Y12は武器の解体と精密機器事業に使用。プルトニウム研究用原子炉のあるX10は人間の遺伝子研究施設に
1993/4/10
政府がウクライナ、カザフスタン、ベラルーシの核拡散防止条約(NPT)加盟を支援するため、核施設ヘの監視カメラ設置や核査察関連技術の訓練など総額で初年度10億円の援助を決定
1993/4/12
第10回国際アマチュア映画祭(実行委員長、平岡広島市長)で、23カ国206の応募作品から三次市の教員国村栄治さんの「平和を生きる-47年目の夏に」がグランプリに決まる
1993/4/13
日本被団協が被爆者援護法成立を求め中央行動。60人が厚生省前に座り込み
1993/4/13
「相互依存世界における軍縮と国家安全保障」をテーマに国連軍縮室、国連アジア太平洋軍縮センター主催の第3回国連軍縮京都会議が開幕。軍縮専門家、外交官、学者ら37カ国89人が参加。平岡広島、本島等長崎両市長も出席。16日まで
1993/4/13
白血病治療のため広島原爆病院に入院していたウクライナの女児エカテリーナ・ヤツェミールスカヤちゃんが退院
1993/4/14
科学技術庁が、日本原燃(本社青森市)が青森県六ケ所村に建設を予定している日本初の民間使用済み核燃料再処理工場について、設計と工事方法を認可
1993/4/16
広島の原爆医療に関する研究成果を集大成した「原爆放射線の人体影響1992」(放医協編)の要約版発刊
1993/4/17
国連軍縮京都会議に参加したアジア各国大使ら22人が広島市を訪れ、原爆資料館を見学、慰霊碑に参拝。18日、広島国際会議場でロシア、ネパール、タイの6カ国が参加し「国連と軍縮シンポジウム」
1993/4/19
東京で世界平和研究所(会長、中曽根元首相)とハーバード大が共催しシンポジウム「核兵器の廃棄とプルトニウム」開催。15カ国140人の研究者らが出席
1993/4/19
広島大医学部の武市宣雄講師がチェルノブイリ原発事故と小児甲状腺がんについて「障害の強さは広島原爆以上」と中国新聞に寄稿
1993/4/19
ワシントンに本部を置く人権組織「チベットのための国際運動」が、中国がチベット高原の秘密基地「第9アカデミー」で1960年代初め以来、核開発を行い、子供たちに白血病が発生と初の包括的な報告書
1993/4/20
京都市の修学院小学校6年生が、被爆し帰国途中に京都市で亡くなったマレーシアの南方特別留学生サイド・オマールさんの足跡をたどり平和学習
1993/4/20
国際非政府組織(NGO)軍縮特別総会が国連本部で開幕。開会式で平岡広島、本島等長崎市長が世界平和連帯都市市長会議を代表し演説。1995年の第4回国連軍縮特別総会の被爆地開催を要請。20カ国から30組織、300人が参加。23日、クリントン米大統領に6月末で期限が切れる米の核実験一時停止を包括的核実験禁止条約(CTBT)実現まで延長するよう求める手紙を採択し閉幕
1993/4/20
放医協が理事会で海外からの研修医を年間125人程度招くなど1993年度の事業計画決める
1993/4/21
全国の非核自治体を結び車で「平和巡礼」している千葉県松戸市の被爆者尾形隆憲さんが呉市役所に到着。28日、広島市入り
1993/4/22
平岡広島市長がニューヨーク市立大リーマン校で講演し、米の原爆投下は(1)人体実験の意思があった(2)戦後の国際社会で優位性を保ちたかったため-と投下責任を追及
1993/4/23
民団広島県地方本部が、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題で、碑文の前面だけを「韓国人」「朝鮮人」と縦書きで左右二列に併記し下に原爆犠牲者慰霊碑と変更する民団の方針が認められない場合は、現状のままの移設を市に求めていくことを改めて確認
1993/4/23
世界保健機関(WHO)が、チェルノブイリ原発事故が原因でベラルーシの小児甲状腺がんが24倍に増えたと発表
1993/4/24
日本被団協が東京で被爆者問題研究会。在韓被爆者問題や平和教育をめぐり論議
1993/4/24
科学技術庁がロシアのトムスク7核再処理施設爆発で原因調査のため、専門家3人を現地へ派遣
1993/4/24
広島県原水禁の宮崎安男代表委員と市民団体「強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会」の川原洋子さんらが広島刑務所で被爆した中国人の証言取材のため中国へ出発
1993/4/26
チェルノブイリ原発事故から満7年。立ち入り禁止区域内のわが家に約4,000人の市民が、事故後初めて数時間の訪問。広島市の平和記念公園では被爆者や市民団体が座り込み
1993/4/26
厚生省の谷修一保健医療局長が衆院決算委員会で、被爆50周年に被爆者実態調査実施を検討と表明
1993/4/26
丹羽雄哉厚相が衆院決算委で、被爆者援護法案への国会議員の賛同署名について「中身を理解せずに署名した人が多い」と述べる
1993/4/28
日本原燃(本社青森市)が青森県六ケ所村で、世界最大級のプルトニウム生産施設となる使用済み核燃料再処理工場の建設着工。2000年に操業開始を予定
1993/4/29
被爆語り部をテーマに東京・八王子市の中学教師野上邦彦さんが東京で個展
1993/4/30
取り壊し中の広島赤十字・原爆病院旧本館で、爆風でゆがんだ窓枠を壁ごとL字型に切り取る
1993/4/30
20年余り被爆証人捜しに携わった広島平和会館の原爆被害者相談員竹内武さんが引退。報道機関を通じて815人を公表、ほとんどが被爆者健康手帳を取得。後任に広島県原水禁代表委員の宮崎安男さん
1993/4/30
歌手の南こうせつさんらが、平岡広島市長に1992年の平和コンサート「HIROSHIMA87-97」の収益約600万円を原爆養護ホームの整備にと寄贈。総額1億5,700万円に
1993/4/--
原子力船「むつ」の原子炉解体が進む。1995年夏には海洋観測船に生まれ変わる予定。原子炉を動かしたのは3,500時間、航行距離8万キロ
1993/4/--
北朝鮮が国連軍縮室に「13日からの国連軍縮京都会議は欠席」と通告。理由は触れず
1993/4/--
東広島市在住のペルー人、ビクトル・ラサルテさんが故佐々木禎子さんを追悼する詩画集出版へ
1993/4/--
旧ソ連が原水爆より強い放射能汚染をもたらすコバルト爆弾の実験をしていた疑いが、野口邦和日本大歯学部助手による土壌解析で判明。土壌は日本ユーラシア協会の調査団がセミパラチンスクで採取。爆発時期は1957年9月から58年10月までの間
1993/4/--
被爆語り部沼田鈴子さんの半生を描いた「青桐の下で」が出版。週刊誌記者の広岩近広さんが執筆