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ヒストリー

ヒロシマの記録1991 7月


1991/7/2
国の「原爆死没者慰霊等施設基本構想懇談会」の森亘・元東大学長ら委員7人が広島市を視察
1991/7/2
被爆「語り部」の沼田鈴子さんが広島大総合科学部の講義で被爆体験語る
1991/7/2
山口県被団協が結成35周年総会。体験継承の「一筆運動」推進を申し合わせ
1991/7/2
チェルノブイリ原発事故で被災した子供と現地の医師ら11人が検査と医学研修のため広島市入り。日本赤十字社などが招く第2陣。子供たちは広島赤十字・原爆病院に入院するなど12日まで滞在
1991/7/3
韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題で平岡広島市長が「南北統一碑が移設の前提」との姿勢を初めて示す
1991/7/3
全電通が定期大会で、原水禁運動と護憲運動の一元化を図るため総評センターが提唱する「日本平和運動センター」設置構想に反対の方針打ち出す
1991/7/5
仏国防省が「ムルロア環礁で核実験を行った」と発表
1991/7/5
イラクのフセイン大統領が、核開発設備リストを8日までに国連調査団に提出するとの書簡をデクエヤル国連事務総長に提出
1991/7/5
長崎市の爆心地近くの工事現場からかめに入った炭化麦が見つかる。被爆資料として長崎国際文化会館に展示へ(長崎新聞7・10)
1991/7/6
平岡広島市長が仏核実験に抗議文
1991/7/6
日本原水協の「国民平和大行進」広島―長崎コースが広島市の平和記念公園をスタート
1991/7/7
ソ連カザフ共和国のナザルバエフ大統領が「セミパラチンスク核実験場は1991年末までに閉鎖される予定」と言明。モスクワ放送が報道
1991/7/7
第8次在北米被爆者検診がホノルルを最後に終わる。受診者は過去最高の532人。新たに61人が受診。検診団(伊藤千賀子団長、8人)は11日帰国
1991/7/8
仏核実験に抗議し被爆者らが広島市の原爆慰霊碑前で座り込む。病気療養中の森滝市郎広島県被団協理事長が10カ月ぶりに参加。平和学習で平和記念公園を訪れていた広島市東浄小学校6年生40人も加わる▽9日、三次市役所前で通算365回目の座り込み
1991/7/8
米政府が「イラクはウラン濃縮計画を含め核兵器開発を実際に進めてきたことを認めた」と発表
1991/7/9
広島、長崎の県市と議会で組織する広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)の国への1991年度陳情書から「遺族弔慰金支給」の項目が消えていることが判明。被爆者団体が「被爆者行政の後退」と反発。平岡市長が意欲をみせた被爆者援護法の制定要求は八者協内の意思統一ができないため盛り込まず
1991/7/9
広島大原医研の佐藤幸男教授が「チェルノブイリ原発事故後、水頭症などの障害児が増加」と東京の集会で報告
1991/7/10
ニューヨークの「広島『原爆の子』記念財団」(内田仁理事長)が募集した米東部3州の高校生を対象にした「原爆の子」英語版感想文コンテストの入賞者5人が決まる。2人が広島市の平和祈念式典へ
1991/7/10
反核・環境保護団体グリーンピースが、ムルロア環礁の仏核実験による周辺住民の被曝実態をまとめた日本語版「モルロアの証言~仏領ポリネシアの被爆者たち」を出版
1991/7/11
米政府高官が「イラクは20~40発の核爆弾を製造できる濃縮ウランを保有」と表明
1991/7/12
韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題で、在日本大韓民国居留民団広島県地方本部が、南北朝鮮の統一碑構想を一時棚上げし、現状移設を求める意向を広島市に伝える。移設問題は振り出しに
1991/7/13
岡山市で第10回「岡山県民平和のつどい」開催。500人が参加。被爆者援護法の制定と非核・平和岡山県宣言の実現を盛り込んだアピール採択
1991/7/14
手記集「原爆の子」の執筆者たちが、編者である長田新広島大名誉教授の故郷、長野県茅野市を訪ね、初のグループ墓参
1991/7/14
川島孝郎さんら教師有志が平和学習の副読本「平和学習ヒロシマノート」(平和文化社)を発行
1991/7/14
核実験に抗議する長崎市民の会(谷口稜嘩代表)が、7月5日の仏核実験に抗議して平和祈念像前で座り込み。17年間で通算330回目(長崎新聞7・15)
1991/7/15
日本原水協が原水禁世界大会広島大会に出席する19カ国45人の海外代表を発表。ソ連ノバヤゼムリャ核実験場近くのコミ自治共和国から初めて参加
1991/7/16
ニュージーランド政府当局者が「仏が16日、ムルロア環礁で核実験を行った」と発表
1991/7/16
平岡広島市長が仏核実験に抗議文。18日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1991/7/16
広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)が厚生省や国会議員に被爆者援護措置の改善を求める陳情書提出
1991/7/16
被爆手記「絶後の記録」を出版した小倉豊文さんの資料展示が広島市公文書館で始まる
1991/7/17
「原爆遺跡保存運動懇談会」(座長、後藤陽一広島大名誉教授)が広島市に(1)被爆建物所有者への保存要請(2)市所有建物の保存(3)市が設置を準備している「被爆建物等継承方策検討委員会」に懇談会の代表を入れる-などを要請
1991/7/17
ブッシュ米大統領とゴルバチョフ・ソ連大統領がロンドン首脳会談で、戦略兵器削減交渉(START)で全面合意。9年余のマラソン交渉に終止符。戦略爆撃機の戦略核運搬手段の上限を1,600基・機とし、戦略核弾頭も総数6,000個とするなど、7年間かけ3段階で戦略核を削減する歴史的合意▽広島市の被爆者団体も評価
1991/7/18
国際原子力機関(IAEA)が特別理事会で、核査察協定違反は明白と対イラク非難決議を採択
1991/7/19
広島市特別名誉市民で広島女学院大名誉教授のメアリー・マクミランさんがニューヨークで死去。78歳。1980年まで33年間、同大の教授を務め、米キリスト教団本部へ何度もリポートを送るなど広島の紹介に貢献
1991/7/20
チェルノブイリ原発事故後の取材活動で被曝したソ連ラジオ・テレビ委員会の女性ディレクター、タチアナ・エゴロワさんが広島市を訪問し、被爆者らを取材
1991/7/20
米紙ワシントン・ポストが「チェイニー国防長官は核戦争で米軍が核攻撃するソ連国内の目標数を従来の1万カ所から7,000カ所に削減を承認」と報道
1991/7/21
2つの広島県被団協や広島県生協連など5団体による「91市民平和行進」が広島市の平和記念公園から長崎市へ出発
1991/7/21
広島市内の手話劇団「河」(杉野信晶団長)が、聴覚障害者の被爆体験をテーマにした創作劇「一番星みつけた」を初公演
1991/7/22
広島平和文化センター製作の「被爆者証言ビデオ」1991年版が完成。元横綱千代の富士の父秋元松夫さんや衛藤瀋吉亜細亜大学長ら50人が証言
1991/7/23
長崎市が1977年から85年にかけて編さんした「長崎原爆戦災誌」のダイジェスト版「ナガサキは語りつぐ-長崎原爆戦災誌」を刊行(長崎新聞7・23)
1991/7/23
広島市内のおばあちゃんコーラスグループ「トワ・エ・モア」(田村照子会長)が、広島、長崎の原爆や世界の核被害の実態を伝えるビデオや本などの資料をアルゼンチンのテレビ番組制作者に送る
1991/7/23
「JAGDA平和ポスター展1991」が広島市内で開幕。141点展示
1991/7/23
米海軍のロサンゼルス級攻撃型原子力潜水艦パサデナが横須賀港に入港。8月2日出港
1991/7/24
元広島大原医研所長で元広島原爆養護ホーム所長の志水清氏が死去。84歳。爆心復元調査を指揮
1991/7/24
中国新聞が原爆小頭症患者のルポ「原爆小頭児~45歳の夏」を連載
1991/7/24
大阪市原爆被害者の会(森田栄会長)が1966年から続けてきた土佐堀川の灯籠流しが姿を消す。被爆者の高齢化に伴い川への転落事故が懸念されるため
1991/7/24
米政府が「ソ連は米ソ中短距離核廃棄条約(INF全廃条約)に基づき、核弾頭搭載のSS23をすべて期限内に廃棄した」と発表
1991/7/24
長崎県原爆被爆二世教職員の会が、山口涼子さんを団長とする8人の在韓被爆者実態調査団を韓国へ派遣(長崎新聞7・24、8、3)
1991/7/25
韓国人原爆犠牲者慰霊碑移設問題で、在日本朝鮮人総連合会広島県本部の梁寿男委員長が平岡市長に南北朝鮮統一碑の対案を提示。碑文案は「同胞原爆犠牲者慰霊碑」「原爆犠牲者統一碑」など4案
1991/7/25
被爆歌人、故正田篠枝さんをしのび、遺稿や日記など100点の資料展が広島市中央図書館で始まる
1991/7/25
旧広島文理科大で学んでいたマレーシアの南方特別留学生アブドル・ラザクさんの被爆体験記「わが心のヒロシマ~マラヤから来た南方特別留学生」(勁草書房)が翻訳・出版。マレー語の原著「広島の灰」は1987年にマレーシア国立国語・図書研究所が出版
1991/7/26
広島県府中市の「ジュノーの会」(甲斐等代表)の招きでチェルノブイリ原発事故で被災したソ連ウクライナ共和国の児童3人と医師が広島入り
1991/7/26
「第10回反核平和の火リレー」の最終ランナーが広島市役所前にゴールイン。広島県内86市町村、約2,000キロを1万625人が核兵器廃絶を訴えて走り抜く
1991/7/27
広島市のサロンシネマがソ連セミパラチンスク核実験場周辺住民の放射能被害の実態を描いた「ポリゴン」を上映。8月7日からは原発事故の後遺症に苦しむ子供たちや母親を描いた「チェルノブイリ黙示録」を上映
1991/7/27
笠岡市の35組の親子が非核平和都市宣言啓発委員会(岡田伸志委員長)の親子平和バスで広島市を訪れヒロシマ学習
1991/7/27
原水禁国民会議の「被爆46周年原水禁非核平和行進」が福山市に到着
1991/7/27
米シカゴ市のフランシス・パーカー・スクールの女性教師2人が、2年生を中心とした児童、父母ら400人が折った千羽づるを広島市の原爆の子の像にささげる
1991/7/28
東京都被団協(東友会)が東京ゆかりの原爆死没者1,050人の名簿を作成、品川区の東海寺で開いた慰霊祭で遺族らに配布。死没者遺族への個別補償を求める運動の一環
1991/7/29
平岡広島市長が平和祈念式での「平和宣言」の骨子を発表。日本が植民地支配や戦争でアジア諸国へ大きな苦しみと悲しみを与えたと「謝罪」の表現を初めて盛り込み、医療協力の推進などを打ち出す
1991/7/29
広島で被爆した三菱重工業元徴用工で組織する「韓国人原爆被害徴用者同志会」の金敏経さんら16人が広島市を訪問。平岡広島市長と会見
1991/7/30
朝鮮中央通信が「北朝鮮外務省は朝鮮半島の非核化を盛り込んだ声明を発表した」と伝える
1991/7/30
持田郁子さんが「夏草~ひろしまおぼえ書き」(径書房)を出版
1991/7/31
ゴルバチョフ・ソ連大統領とブッシュ米大統領がモスクワのクレムリン宮殿で戦略核兵器を史上初めて削減する米ソ戦略兵器削減条約(START)に調印。核弾頭の削減率は米39%、ソ連48%。ブッシュ大統領が「半世紀にわたる不信感を解消する重要な一歩を踏み出した、世界平和への大きなステップ」と述べる
1991/7/31
広島への原爆投下を正当化する2月のチェイニー米国防長官発言に抗議し、日本被団協の伊東壮代表委員ら3人が在日米大使館にブッシュ大統領あての公開質問状を提出
1991/7/-- 
アジア諸国の日本観とヒロシマ観を探るため、広島市が各国の歴史教科書収集へ

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