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ヒストリー

ヒロシマの記録1990 8月


1990/8/1
峠三吉の未発表の詩や被爆児童らの詩など71編を収録した「行李の中から出てきた原爆の詩」が暮しの手帳社から出版。1952年発刊の原爆詩集「原子雲の下より」の未収録作品を広島文学資料保存の会(好村冨士彦代表幹事)が峠の親類宅で見つけ、編さん
1990/8/1
日本原水協の原水禁世界大会国際会議が広島市で始まる。開会総会には18カ国、12国際・地域組織から海外代表42人を含む230人が出席。主催者を代表し、核廃絶を求めるNGO宗教者協議会の関屋綾子代表委員が被爆者援護法制定のため国際連帯を訴えるあいさつ
1990/8/1
原爆ドームの歩みを写真や資料で紹介する「被爆45周年記念特別展示物産陳列館から原爆ドームへ-75年の歴史」が広島市役所ロビーで始まる
1990/8/1
ソ連の反核市民団体「ネバダ・セミパラチンスク運動」のオルザス・スレイメノフ議長ら代表12人が原水禁世界大会(原水禁国民会議系)参加のため広島入り
1990/8/1
故任都栗司元広島市議会議長の夫人カヨルさんが夫の形見で広島原爆を描いた故福富雷童氏の作品を広島市に寄贈し、平和記念館に展示へ
1990/8/1
北朝鮮の被爆者として原水禁世界大会(原水禁国民会議系)に初めて出席するため姜炳泰(カン・ビョンテ)さんが18年ぶり来日。北朝鮮政府が公式見解では「存在しない」としていた被爆者について「自分の住む区域に約10人いる」と実態の一部を明かす
1990/8/1
ブラジル・ゴイアス州の医療用放射線セシウム137による被曝事故で、治療に当たる同州の小児科医シルバ・ホセ・フェヘレイラさんが広島県の研修員として広島赤十字・原爆病院へ。1991年3月まで医療技術を学ぶ
1990/8/1
国際的な環境保護団体グリーンピースのヨット、ベガが広島港に入港。ダニエル・メアーズ船長ら乗組員3人が広島市役所を訪れ、荒木市長に核兵器を搭載した米艦船の入港に反対するよう要請
1990/8/1
原爆犠牲者に平和の祈りをささげる「フランス・日本友好音楽祭」が広島国際会議場フェニックスホールで開かれ、仏の作曲家フェリエ・ジョルダンさんが45年前に作ったレクエイム「OURAGAN(嵐)」を初演
1990/8/1
広島平和美術展が広島県立美術館で始まる。同展創始メンバーで2月に83歳で死去した洋画家木谷徳三氏の遺作70点も展示
1990/8/2
北海道帯広市の私立白樺学園高の生徒が高橋幹夫市長の平和メッセージを携え、広島まで1,400キロの自転車リレーに出発。体育コースの男子30人が4人ずつ交代で走破し、6日平和記念公園に到着
1990/8/2
原水禁世界大会で広島市を訪れた米ネバダ核実験による被害住民の支援団体「市民の声」代表のジャネット・ゴードンさんが中国新聞のインタビューに応じ「ユタ、ネバダ、アリゾナ州の風下地区で以前よりがんが多発し、手足の機能障害など原因不明の病気も増加」と語る
1990/8/2
連合広島が「平和のつどい」を広島国際会議場で開き、組合員ら400人が参加。カンパで購入したベッドや冷蔵庫を広島赤十字・原爆病院に贈る
1990/8/2
原水禁世界大会(原水禁国民会議系)で広島を訪れた北朝鮮代表団の柳海永団長(朝鮮平和擁護全国民族委員会副委員長)が「共和国政府は今年から国内の被爆者の調査に入っており、実態が近くわかる」と語る
1990/8/2
広島市の平和記念公園で被爆45周年の原爆死没者慰霊式・平和祈念式のための清掃奉仕に市民1,400人が参加
1990/8/2
広島原爆の投下直前、エノラ・ゲイの随伴機が落とした落下傘の一部を保存していた広島市安佐北区の栗原雅男さんが原爆資料館に寄贈。栗原さんは落下傘についていた爆発観測用の無線通信装置を回収した広島地区第11特設警備隊の元隊員
1990/8/2
米ブッシュ大統領が米軍を1995年までに25%削減する一方、戦略核兵器近代化、戦略防衛構想(SDI)の継続を表明
1990/8/3
米ハンフォード核兵器工場の被害者支援団体「ハンフォード風下地区連合」代表で甲状腺障害に苦しむジュディス・ジャージーさんが中国新聞社を訪れ、400人を超す被害者らについて「政府の秘密政策の下で私たちもヒバクシャになった」と語る
1990/8/3
ポーランドの映画監督アンジェイ・ブジォゾフスキさんが原爆短編映画製作のため広島入り
1990/8/3
「サダコと千羽鶴」の著者で米児童文学者エレノア・コアさんが広島市など主催の「90女性平和国際シンポジウム・イン・ヒロシマ」に参加のため広島入り。広島「折鶴の会」の高校生らと原爆の子の像に千羽づるささげる
1990/8/3
笠岡市職組の「ピースラン90笠岡~広島平和マラソン123」の35人が123キロを2日で走破し、平和記念公園に到着
1990/8/3
日赤長崎原爆病院が、1989年度の被爆者診療状況を発表。外来患者数は前年度より902人減って9,417人。入院被爆患者は790人で全入院患者の53%。入院被爆者の疾病で最も多いのはがんで全体の28.2%
1990/8/3
長崎市の平和公園で長崎「旅」博覧会の一環として、市民や観光客が核ミサイル模型を容器に封じ込める「核の封印」が始まる
1990/8/3
広島女学院の原爆ドキュメント映画「夏雲-逝きしものへのレクエイム」の撮影が広島市内で始まり、被爆死した旧高等女学校生徒らの遺族が証言
1990/8/3
日本山妙法寺(千葉県)の平和行進100人が平和記念公園入りし、原爆慰霊碑前で題目を唱和
1990/8/3
米国原爆被爆者協会の倉本寛司会長とブラジル原爆被爆者協会の森田隆会長をはじめペルー、アルゼンチン4カ国の被爆者10人が広島県と広島市の被爆45周年記念事業で招かれ、市役所を訪問。荒木市長に「日本国内に住む被爆者と同じ援護の手を」と訴え
1990/8/3
原水禁国民会議の原水禁世界大会国際会議が広島市で始まる。初参加のソ連セミパラチンスク核実験場の風下住民や北朝鮮の被爆者ら14カ国、1国際組織の海外代表41人を含む100人が出席。原水禁の森滝市郎代表委員が「核被害者を囲んで世界が手をつなぎ、人類の生存のために戦おう」とあいさつ
1990/8/3
日本原水協の原水禁世界大会国際会議が軍事ブロックの解消や被爆者援護法の制定と原爆遺跡・被爆建造物の保存などを求める広島宣言を採択し、閉会。国民平和大行進の1,000人が平和記念公園に到着
1990/8/3
荒木広島市長が米が7月25日行ったネバダ核実験に抗議する英文書簡をブッシュ大統領に送る。元首に直接送る抗議書簡は15年ぶり
1990/8/4
原水禁国民会議の原水禁世界大会広島大会が広島市中区の市中央公園で開幕し、7,000人が参加。6日まで。「ネバダ・セミパラチンスク運動」のオルザス・スレイメノフ議長が「世界のヒバクシャが連帯を」と訴え
1990/8/4
日本原水協の原水禁世界大会広島が広島市西区の広島サンプラザで始まり、8,500人が参加。実行委議長団の山口勇子さんが「冷戦を真に終わらせるため、草の根の世論と運動を」と主催報告
1990/8/4
広島市の福島隆義助役が記者会見で、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園内移設について「在日本大韓民国居留民団と在日本朝鮮人総連合会との調整がつかなかった」と6日までの移設断念を正式表明
1990/8/4
被爆死没者名と被爆地などを確認する広島市の「被爆者動態調査」に、山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑が1971年に国立山口病院などで見つけた被爆軍人1,000人の医療カルテ活用へ
1990/8/4
広島三菱重工業韓国人被爆者沈没遺族会(盧長寿会長)がソウルで総会を開く。三菱工業に対し(1)被爆した元徴用工への未払い賃金と補償金の支払い(2)引き揚げ途中に遭難した徴用工の遺骨捜索と返還-を求める
1990/8/4
モンパー西ベルリン市長とシュビルツィナ東ベルリン市長が広島の原爆投下45周年に際し、核兵器保有国すべてに核実験の即時停止を求める共同声明を発表
1990/8/4
カナダ核戦争防止国際医師会議(CPPNW)が呼び掛けた「平和のための灯ろう流し」がカナダ各地で開かれ、バンクーバーで被爆者を含む市民300人が参加
1990/8/4
テレビアニメ「忍者ハットリくん」などの声優堀絢子さんが、原爆をテーマにした一人芝居「朝ちゃん」を広島市中区の平和記念聖堂や被爆死した医師の父が運ばれた三次市で連続上演を始める
1990/8/4
日本キリスト教団広島牛田教会の荒川純太郎さん、奈津江さん夫妻がギリシャ・クレタ島での「平和と命のクレタ会議」に招かれ、奈津江さんの被爆体験や被爆写真を紹介。会議はクレタ・ギリシャ正教アカデミー主催
1990/8/4
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)のアジア太平洋地域会議がフィリピン・マニラで3日間の日程で開幕し、支部がある日本や韓国など8カ国に加え非核憲法を持つパラオ、仏領ポリネシアの医師を含む130人が参加。碓井静照広島県医師会常任理事が被爆体験を発表
1990/8/5
日本被団協が広島市で「被爆者・遺族と国民のつどい・広島」を開き、被爆者援護法案を共同提案の野党6会派の代表も参加。秋の臨時国会に向け、援護法制定のための1,000万人署名推進を誓う
1990/8/5
広島県被団協の元事務局長桧垣益人さんが急性気管支肺炎のため死去。94歳。原爆で妻と娘を失う。1961年から23年間、広島県被団協事務局長を務めた。78年、ニューヨークの第1回国連軍縮特別総会で「ノーモア・ヒバクシャ」を訴え
1990/8/5
平和記念公園対岸にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で慰霊祭。在日本大韓民国居留民団広島県地方本部の徐聖銖団長が「公園内移設に努力」と追悼の辞
1990/8/5
広島市に3つ目の原爆養護ホーム建設を目指し、人気ロックバンドによるチャリティー公演「HIROSHIMA90」が千葉県浦安市で4,000人を集め開催。6日も。4回目を迎える同コンサートの首都圏開催は初
1990/8/5
全国高校生平和集会(広島県高校生平和ゼミナールなど主催)が広島市内で30都府県から700人が参加し始まる。1年間の学習成果発表
1990/8/5
カトリック広島司教区が広島市中区の世界平和記念聖堂で「ヒロシマを考える」集会。信者ら800人が参加。関西大講師の上杉聡さんが「軍都広島と戦争」と題し、原爆資料館に日本の侵略戦争資料も展示すべきと講演
1990/8/5
原水禁国民会議の原水禁世界大会広島大会国際交流分科会で米、ソ連、マーシャル諸島、日本の核被害者らが民衆による「包括的核実験禁止条約」に署名。条約の内容は(1)核実験の中止(2)核実験施設の閉鎖と撤去(3)核廃棄物を含む情報の公開(4)実現に向け非暴力行動を起こす民族の責任-など
1990/8/6
1945年7月に伊豆大島から広島市に疎開して被爆死したとみられる母子2人の名前が、原爆死没者名簿に登載され、原爆慰霊碑に奉納へ。東京・杉並区に住むめいの臼井真琴さんが手続き
1990/8/6
中国新聞が「原爆の子45年」と題する10回の連載企画を掲載。15日付まで。「原爆の子」(長田新氏編・岩波書店刊)に手記を寄せた児童、生徒らのその後の人生を追い、被爆45周年の思いを記した新たな手記を載せる
1990/8/6
米NBCテレビがドキュメンタリードラマ「ヒロシマ、灰の中から」を2時間にわたり全米放映。米3大テレビが原爆ドラマを放映するのは初。アカデミー賞受賞のピーター・ワーナー氏が監督し、米国原爆被爆者協会顧問の据石和さんがアドバイザー役
1990/8/6
荒木広島市長が平和宣言。「東西対立の象徴だったベルリンの壁が取り払われ、人類は新しい歴史への一歩を踏み出した。米ソ両首脳は、本年6月、戦略核兵器の実質的削減に合意するとともに、一層の核軍縮を目指す交渉の開始も取り決めた。軍縮の流れを、ヒロシマは高く評価する。核保有国は世界の世論にこたえ、即刻、核実験の全面禁止、核兵器廃絶への道を急ぐべきであり、各国は全面完全軍縮への更なる努力を行うべきである。日本政府は緊張緩和の動向を踏まえ、国是とする非核三原則の法制化を実現させ、率先してアジア・太平洋地域の非核化と軍縮に努めなければならない。ヒロシマは今後とも、原爆被害の実相を世界に知らせるとともに、核軍縮に向けての国際世論を高めるため、国際的な平和研究機関の設立を推進する。ヒロシマは、日本政府が原子爆弾被害者実態調査の結果を生かし、国家補償の理念に立った画期的な被爆者援護対策を早急に確立するよう強く求める。また、朝鮮半島や米国等に在住する被爆者の援護が推進されるよう念願する」
1990/8/6
海部首相が平和祈念式後の記者会見で、参院で継続審議の被爆者援護法について「現行原爆二法で対応したい」と従来の政府方針繰り返す。広島県被団協の森滝市郎理事長は「広島に来る以上はそれなりの決意を持って来てほしかった」と失望感表明
1990/8/6
静岡県下田市に住むアンドルー・ヒューズさんがオーストラリアへの帰国を前に広島市を訪れ、被爆資料に見入る。牧師として来日し、広島市の依頼で1957年初めて原爆資料館展示品に英語の説明文を担当
1990/8/6
連合、原水禁、核禁会議の3団体が初めて実行委をつくった「被爆者援護法制定を求めるヒロシマ集会」が広島市内で開かれ、労組員ら1,000人が参加。連合の藁科満治会長代行、原水禁の森滝市郎代表委員、核禁会議の磯村英一議長が主催者あいさつ
1990/8/6
日本被団協が全国47都道府県の「県の木」などを植えた「被爆者の森」が広島市中区鶴見町の平和大通り緑地帯1ヘクタールにでき、100人が参加し完成式
1990/8/6
原水禁国民会議の原水禁世界大会広島大会が広島労働会館で500人が参加し総括集会。世界のヒバクシャとの連帯と援助、被爆者援護法制定とすべての外国人被爆者援護などを求める「ヒロシマ・アピール」採択
1990/8/6
日本原水協の原水禁世界大会広島が広島サンプラザで1万人が参加し、閉会総会。「軍事同盟、軍事ブロック解体」など「広島からのよびかけ」を採択。全地方自治体の被爆者援護法促進決議を求める特別決議も
1990/8/6
広島被爆45周年。広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式。市民ら5万5,000人が参列。国が1980年に行った死没者調査で新たに判明した広島の原爆死没者5,551人と、この1年に亡くなった4,624人の死没者名簿が原爆慰霊碑に奉納され、名簿累計は16万7,243人に。海部首相が現職首相6人目の式典参列者として「死没者に対する弔意の表し方についてさらに検討」とあいさつ
1990/8/6
広島市などが主催する「90女性国際平和シンポジウム・イン・ヒロシマ」が広島国際会議場で開かれ、米児童作家エレノア・コアさんやソ連平和基金第1副議長スベトラーナ・サビツカヤさん、スウェーデン軍縮委員会委員長マイ・ブリット・テオリンさんら6カ国、6人が討論。「女性が反核・平和の世論形成に果たすべき役割は重要」との認識で一致
1990/8/6
「ヒロシマ・デー国際電話プロジェクト」(ロナルド・クライン世話人)が広島市の中国放送スタジオから米、カナダ、オーストラリアなど世界10数カ国に式典の様子や平和宣言の内容を英語で生中継
1990/8/6
呉港入港の外国艦船に非核証明提出を義務付ける条例改正直接請求で、「非核の呉港を求める会」(31団体)が3万4,209人の署名を呉市選挙管理委員会に提出。市長への本請求である有権者数五十分の一の3,344人分を超え、改正案は市議会で採決の見通し
1990/8/6
女優の吉永小百合さんが、広島県高校生平和ゼミナールが広島県民文化センターで主催した「ノーニュークス・コンサート90」に友情出演し、原爆詩を朗読。「ヒロシマ・ノート」(大江健三郎氏著)を題材にした1966年製作の日活映画「愛と死の記録」に主演した吉永さんは「1度はこうした平和の集いに参加したかった」とあいさつ
1990/8/6
「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む広島集会」が広島市の世界平和記念聖堂であり、元徴用工の在韓被爆者やソウルの元日本軍軍属、サハリン残留韓国人の家族らが心と体の傷を訴え
1990/8/6
日本原水協の原水禁世界大会広島に参加の海外26カ国、都道府県の代表ら2,500人が「核戦争阻止」を訴え、原爆ドームを囲む「折り鶴・人間の鎖」をつくる
1990/8/6
原爆被害者相談の会(鈴木勉代表)が広島YMCAで「原爆被害者証言のつどい」。被爆体験を若者に語り継ぐ催しに、大学生や高校生ら300人が参加
1990/8/6
広島、米、ソ連の高校生100人が広島女学院高で被爆語り部の山岡ミチコさんとともに灯ろうを作り、元安川に流す
1990/8/6
福山市原爆被害者の会(吉田悦三会長、1,000人)が被爆45周年を記念し発刊した「福山市原爆死没者慰霊碑建立記念誌・原爆体験記」を、1989年に福山市の中央公園に建立された慰霊碑に奉納
1990/8/6
核兵器廃絶を訴える米先住民のデニス・バンクスさん提唱の「聖なるランニング」が英ロンドンのハイドパークを出発。ソ連モスクワまで欧州大陸8,500キロを駆け抜ける旅に日本を含む世界12カ国80人が参加
1990/8/6
韓国原爆被害者協会(辛泳洙会長)の韓国人原爆犠牲者追悼式がソウルの世宗文化会館で開かれ、被爆者や与党・民自党の金泳三代表最高委員ら300人が参加。辛会長はあいさつで「日本政府が在韓被爆者への拠出金40億円の一部を医療機器に振り替えている」と批判。本島等長崎市長が「長崎市民を代表し謝罪」とのメッセージ寄せる
1990/8/7
広島国際文化財団(山本朗理事長)主催の若手国会議員によるシンポジウム「広島からあすの世界を考える」が広島市内のホテルで開かれ、与野党の衆参両院議員16人が出席。被爆者援護などを討議
1990/8/7
原水禁国民会議の原水禁世界大会が会場を長崎市に移し始まる。市内の公園での結集集会に4,000人が参加。長崎原水禁の後藤礼司議長が「労働界の再編の影響は原水禁にもあるが、この火を消してはならない」とあいさつ
1990/8/7
米平和運動家の故バーバラ・レイノルズさんが創立した広島市のワールド・フレンドシップ・センター(森下弘理事長)が開設25周年を迎え、広島国際会議場で記念の集い。関係者35人がバーバラさんの遺志継承を誓う
1990/8/7
東京・世田谷区の世田谷公園で「平和の灯」モニュメントの除幕・点火式。大場啓二区長が広島市の「平和の灯」と長崎市の「誓いの灯」を合わせ点火。東京23区で広島、長崎の平和の灯がともされるのは3番目
1990/8/7
ソ連のコーラスグループ「サマンサ少年少女合唱団」の16人が広島市の平和記念公園にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」前で平和ソングを披露
1990/8/7
ソ連キエフ市でチェルノブイリ原発事故被曝者の救援に取り組む「ネクスト・ストップ・キエフ」の若者たち16人が、大阪の「日ソ市民交流をすすめる会」の招きで広島入り。17日まで反原発運動団体などと交流
1990/8/7
韓国の金宇相下関総領事が韓国人原爆犠牲者慰霊碑の移設問題で、新しい碑文の内容を煮詰める際、「韓国人」という文字を削除しないよう広島市に要請
1990/8/7
原水禁国民会議の原水禁世界大会参加のため、北朝鮮在住の被爆者、姜炳泰さんが長崎市入り。北朝鮮在住の被爆者が長崎で証言するのは初
1990/8/7
竹下虎之助広島県知事が記者会見で、県や放射線影響研究所、広島大原爆放射能医学研究所、広島県医師会など10機関でつくる「放射線被曝者の医療等国際協力に関する検討会議」(仮称)設置を公表。国外からの医師受け入れ、被爆者治療データ活用の情報提供システムなど医療面での国際協力に向け態勢づくりに入る。知事は「被曝者医療情報の発信機能を果たしたい」と述べる
1990/8/8
「愛と平和」をテーマに広島市など主催の国際アニメーションフェスティバル広島大会が開幕。13日まで。世界34カ国・地域から385本が寄せられ、第1次審査を通った70本を公開審査
1990/8/8
被爆二世で広島市南区の会社員政泰治さんが、長崎市の平和公園から450キロを7日間で完走し、広島市の平和記念公園にゴール
1990/8/8
韓国教会女性連合会の李愚貞・前会長が長崎市で「在韓被爆者援護法案を韓国国会に働きかけ」と公表。法案は被爆者センター建設や医療、生活など7条で構成
1990/8/9
長崎被爆45周年。長崎市の平和公園で被爆45周年原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典が営まれ、2万4,000人が参列。厚生省の死没者調査などで新たに確認された犠牲者8,692人の名簿を奉安箱に納め、名簿総数は8万8,426人に。海部首相も出席し、あいさつ
1990/8/9
原水禁国民会議の原水禁世界大会長崎大会が世界の核被害者との連帯などアピールを採択し、閉会
1990/8/9
日本原水協の原水禁世界大会長崎大会が被爆者援護法の制定などを求めるアピール「長崎からの手紙」を採択し、閉会
1990/8/9
米、ブラジル、ペルー、アルゼンチンに住む在米被爆者の代表10人を含む200人が参加し「被爆者健康管理のつどい」が広島県民文化センターで開催。広島県と広島市が被爆45周年を記念し主催
1990/8/9
韓国の日刊紙・釜山日報の東京支社長崔性圭さんが、韓国人原爆犠牲者慰霊碑取材のため広島入り。「慰霊碑移設問題は韓国内でも関心を呼んでいる」と語る
1990/8/9
山口市に住む語り部の野村智子さんが、広島での被爆直後に舞い落ちて来たはがきと封筒の持ち主「野口明子」さんの消息捜し。中国新聞の報道で翌日、いとこや友人から連絡。野口さんは建物疎開に出て被爆死
1990/8/9
韓国人原爆犠牲者慰霊碑移設問題で、在日本大韓民国居留民団と在日本朝鮮人総連合会の両広島県本部トップ、広島市の福島隆義助役、韓国・朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑(仮称)建立準備委の原田東岷さんが非公式に会い、「南北一つの碑」実現を確認
1990/8/9
本島等長崎市長が平和宣言。「わが国は、日韓併合の後、日中15年戦争、太平洋戦争を戦い、長崎原爆を最後に敗戦となりました。内外二千数百万人の尊い生命を奪った戦争を心から反省し、犠牲となった多くの日本人と外国人のめい福を祈り、その償いを考えなければなりません。長崎は核実験の即時全面禁止と核兵器の廃絶を訴えます。アメリカのかつての責任者たちが『核兵器を積まぬ空母はない』と明言するなど日本に核兵器が持ち込まれているのではないかと疑う国民は多い。政府が真実を明かにするよう求めるとともに、非核三原則の厳守と立法化を強く訴えます。戦後45年間、外国人被爆者を放置してきた責任は極めて大きい。特に強制連行され、非人道的な扱いを受けた末に被爆した朝鮮や中国の人は今も原爆症に心身を破壊されています。速やかに謝罪し、援護しなければなりません」
1990/8/10
ふくやま美術館が募集した「第1回ふくやま子ども平和美術展」の大賞である井伏鱒二賞に、福山市立旭小1年の加藤隆正君ら3人が選ばれる。同市出身の井伏さんが美術展の趣旨に賛同し、名前使用を了承
1990/8/10
荒木市長が長崎市の平和祈念式典を欠席し、福島隆義助役が代理出席していた問題が広島市議会で取り上げられ、公明党市議が「本島等長崎市長が広島を訪れているのに非礼ではないか」と批判。荒木市長は就任以来、長崎市の式典16回のうち5回を代理出席
1990/8/11
広島原爆を投下した米軍機B29エノラ・ゲイのポール・チベッツ機長、セオドア・バンカーク航空士、トム・フェレビー爆撃手ら元乗務員が、爆撃機にキノコ雲をあしらった絵やTシャツ、コーヒーカップなどの原爆記念グッズを全米で販売していることが判明。「単なる需要と供給の関係にすぎない」とチベッツ氏
1990/8/11
ソ連の共産青年同盟機関紙コムソモリスカヤ・プラウダが「レニングラード市の放射能汚染の結果、15万もの地点で自然値を上回る放射線検出」と報道。汚染地点の大半が放射性物質を扱いながら廃棄物処理場なし
1990/8/13
国際アニメーションフェスティバル広島大会のグランプリにソ連のアレクサンドル・ペトロフさんの初監督作品「雌牛」、ヒロシマ賞に英のマーク・ベイカーさんの「丘の家」が選ばれる
1990/8/13
ブラジル原爆被爆者協会(森田隆会長)の一行が本島等長崎市長を訪れ、被爆者救済を訴え
1990/8/13
防衛庁が1990年版「防衛白書」で「非核三原則を国是として堅持」との記述復活へ。1989年版では「非核三原則を守りつつ」と記述し、野党の追及受ける
1990/8/15
広島-長崎間を歩く「平和アピール・ウォーク」に挑戦していた横浜市の中村勝利さん(72)と大串正喜さん(60)が10日間で長崎市の平和公園に到着
1990/8/15
被爆直後の広島で遺体処理をした暁第6140部隊元兵士で呉市に住む又野宏純さんの元に、自ら書いた遺骨引き渡し書が届く。広島市立中2年生の弟を失った広島市の池野寿子さんが保存
1990/8/16
スウェーデン国防研究所が,中国地下核実験とみられる地震を観測。爆発規模は50~200キロトン
1990/8/18
中国核実験に抗議し、広島原爆被害者の会のメンバーらが原爆慰霊碑前で座り込み
1990/8/18
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)日本支部の代表5人が、ソ連チェルノブイリ原発事故被災者の治療に当たる全ソ放射線医学研究センターなど医療支援のため、広島を出発。31日帰国
1990/8/18
反核団体「トマホークの配備を許すな全国運動」が非核平和宣言自治体1,453市町村を対象にしたアンケート結果を公表。回答数は121。沖縄近海で水爆搭載機水没事故を起こした米空母タイコンデロガ事件について「非核三原則を侵害された国民感情を理解できる」が83%。広島県、広島市は回答せず
1990/8/20
核拡散防止条約(NPT)の第4回再検討会議がスイス・ジュネーブの国連欧州本部で開幕。締結国142カ国のうち100カ国が出席し、条約未批准の中国、仏も初めてオブザーバー参加
1990/8/23
イタリアのアッシジで日本の佼成出版社とイタリアのチッタデラ出版社が主催し「地球はもう待てない-環境の危機と人間の生き方」をテーマに国際平和会議。日本から庄野直美広島女学院大教授、被爆者の渡辺美代子さんら参加
1990/8/25
広島、長崎の原爆投下部隊、米陸軍第2航空隊第509混成航空群の元隊員ら400人が、秘密訓練基地だったユタ州ウェンドーバーで記念碑除幕を兼ね原爆投下45周年記念集会。高さ5メートルの碑の上部にブロンズ製のB29エノラ・ゲイの模型を飾り、「第二次大戦の終結に貢献した部隊の功績をたたえると同時に、ヒロシマ、ナガサキの犠牲者を悼む」言葉を刻む。ポール・チベッツ元機長は「勝利するためには自分たちが持つすべての頭脳と力を使わねばならなかった」とスピーチ
1990/8/25
反核市民グループ「ピース・リンク広島・呉・岩国」が広島市の原爆慰霊碑前で、核兵器搭載可能な米駆逐艦ヒューイットの横須賀入港に抗議する座り込み
1990/8/28
広島県原爆被爆教職員の会の招きで、北京にある中国勤労旅行社日本語通訳の劉維漢さんが平和教育を研究するため広島入り。広島大に1年間留学
1990/8/29
広島市の鵜川コズマさんが、亡き夫が被爆直後の広島で見つけた萩焼のきゅうす、湯冷まし、湯のみの3点セットを原爆資料館に寄贈
1990/8/--
被爆語り部のグループ「ヒロシマを語る会」(吉田博直代表)などが在韓被爆者27人の証言を現地で聞き取りまとめた「海峡を越えて」を発刊
1990/8/--
旧長崎医科大付属病院の看護婦や遺族らが被爆体験記「夾竹桃よ永遠に-原子爆弾犠牲者の霊に捧ぐ」を出版。故人をしのぶ77編を収録
1990/8/--
「ネバダ・セミパラチンスク運動」が、ソ連カザフ共和国のセミパラチンスクから広島、長崎、米ネバダなど世界の核被害地を回り反核を訴える「平和な21世紀への遊牧」を提唱
1990/8/--
広島県朝鮮人被爆者協議会の李実根会長が交流した修学旅行生らの感想文や自らの講演録「アンニョンハシムニカ-お元気ですか-李さん」を自費出版
1990/8/--
広島朝鮮中高級学校講師の朱碩さんが被爆体験や新聞投稿「被爆朝鮮人教師の戦後史」を出版
1990/8/--
広島市出身の演出家村井志摩子さん書き下ろしの一人芝居「広島の女」第3部「ビラはふる」がスイス・ジュネーブで上演へ。日常生活に潜むヒロシマの傷跡を描く「ビラはふる」は1988年、英エジンバラ・フェスティバルでフリンジ・ファースト賞を受賞
1990/8/--
広島テレビ制作の「ドキュメント90・核汚染の原野~ソ連セミパラチンスク」(7月29日放送)が放送批評懇談会のギャラクシー賞7月度月間賞を受ける

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