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ヒストリー

ヒロシマの記録1990 12月


1990/12/1
長崎県被爆者手帳友の会が、広島県原水禁の森滝市郎代表委員に第3回「友の会平和賞」。第1回は具島兼三郎元長崎大学長、2回目は宇都宮徳馬参院議員
1990/12/2
ヒロシマ・ピース・センター(鶴襄理事長)が主催し、留学生対象の第1回「日本語による世界平和弁論大会」開く
1990/12/5
広島市の旅館「新亀万」にあったヒロシマ修学旅行の感想文を集めた「坂本文子記念文庫」を、同旅館閉鎖のため近くの旅館「あいおい」へ移す
1990/12/8
ソ連チェルノブイリ原発事故の直後から原子炉や放射能除去作業などを撮影したウクライナ共和国のカメラマン、イーゴリ・コースチンさんが広島YMCAで自作のスライドを上映しながら体験を証言。10日、広島大原医研に検査入院
1990/12/8
日弁連被爆者援護法調査研究委員会が広島市内で公開研究会。大阪の原爆被爆者問題研究会の木下準一弁護士らが参加。9日も
1990/12/8
広島市で朝鮮人、中国人の強制連行の実態を明らかにしようと、市民グループ「広島の強制連行を調査する会」(正木峯夫広島電大付高教諭ら18人)が発足
1990/12/9
広島県の2つの被団協など6団体でつくる「援護法実現100万人署名実行委員会」と原爆被害者相談員の会が「被爆者援護法の制定を求めるヒロシマの集い」開く
1990/12/10
被爆建物の広島電鉄千田営業所の解体作業が始まる
1990/12/11
映画「チェルノブイリ-昨日・今日・明日」を製作しているソ連モルダビア共和国のスタッフが広島市を訪れ、原爆破壊の跡や放射線後障害の実情などロケ。13日撮影開始
1990/12/11
チェルノブイリ原発事故対策への協力方法を探る日ソ専門家会議が外務省で開催
1990/12/11
原爆被爆者対策基本問題懇談会の意見書から10年。中国新聞が「被爆者援護が阻まれた10年」と題し社説。「被爆者援護はいま」特集も▽日本被団協は東京で「基本懇意見10周年パネルディスカッション」。日本弁護士連合会被爆者援護法調査特別委員の安原幸彦弁護士、一橋大の浜谷正晴教授らがパネリスト
1990/12/11
米ヒューストンでの米ソ外相会議で、米ソ地下核実験制限条約と平和目的核実験制限条約が発効
1990/12/13
米が30年ぶりに放射線作業者の許容被曝線量を見直す。国際放射線防護委員会(ICRP)の1958年勧告の「3カ月間の限度3レム」から、77年勧告「年間5レム」へ。日本などは90年勧告の「年間2レム」へ移行準備中
1990/12/14
自民党原爆被爆者対策小委員会が、1991年度予算に要求する原爆死没者への弔意措置の内容固める。両市に慰霊平和記念施設を建設。国が地元県、市とともに基金を出し合い、新たな財団法人を設立する案は「個別弔意の可能性を残す」として盛り込まず
1990/12/14
被爆者遺骨が発見された広島市似島の旧陸軍馬匹検疫所跡にある馬焼却炉保存で、現場から約700メートル離れた場所へ移設始まる
1990/12/21
在韓被爆者援護実施のため、韓国政府が初の被爆者実態調査を始める
1990/12/21
被爆者援護法制定を求める全国組織「援護法ネットワーク」が東京で集会
1990/12/26
広島県庁前庭に「核兵器廃絶に関する広島県宣言」の碑を設置。宣言は被爆40周年を記念し1986年3月、県議会で議決
1990/12/29
1991年度政府予算案で、原爆死没者への弔意措置として広島、長崎への慰霊平和記念施設の建設のための検討会設置などが盛り込まれる。弔慰金は見送り
1990/12/--
オーストラリア・キャンベラ市の戦争記念館に保存されていた呉市駐留の英連邦軍の公式記録フィルムが呉市に届く。1946年ごろの広島市の風景も収録
1990/12/--
米ニューメキシコ州アルバカーキの子供たちが中心になり、核兵器開発の町ロスアラモスに原爆の子の像の姉妹像建設の動き。指導者はアルバカーキ市のケミー・コンドンさん

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