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ヒストリー

ヒロシマの記録1989 8月


1989/8/1
盗まれた「全損保の碑」が市内の空き地で見つかる。3カ所に損傷。動機や犯人は不明
1989/8/1
広島県比婆郡高野町の高野中1年生35人が姉妹校の広島市似島中と平和交流。両校は1988年に山と海の学校の良さを学び合おうと縁組
1989/8/1
ニューヨーク在住のシュリ・チンモイ氏呼びかけの「ピースラン89」広島県内リレーが福山を出発。4月21日、ニューヨークをスタートし、8月7日に出発点に帰着予定
1989/8/2
米エネルギー省が初めて軍用原子力施設で働く労働者の健康被害調査を発表。高い発がん率、赤ん坊の障害も。ハンフォード核物質生産工場では周辺住民にも被害が及び、1968~80年に生まれた赤ちゃん2万3,319人のうち1.9%に当たる454人に神経網欠損などの先天性障害
1989/8/2
オーストラリアの先住民アボリジニーのヤミ・レスターさんが広島市で、核実験被害の実情を訴える。12歳のころの1953年10月15日、オーストラリア南部の砂漠地帯エミューで行われた核実験で被曝、間もなく右目、4年後に左目も失明。アボリジニー被曝問題と取り組むメルボルン大政治学部の田中利幸助教授も出席
1989/8/2
在韓被爆二世7人(代表、李鉉出さん)が初めて日本の被爆二世らに招かれ本島等長崎市長を訪問。本島市長は「両親の被爆は日本人のせい。日本人の1人として申し訳なく思っている」と謝罪。7人は8月6日の広島の平和記念式典にも参列、広島の被爆二世とも交流
1989/8/2
「生き残った人びと」(文芸春秋刊)の著者上坂冬子さんが本の登場者中7人を招き、東京で「日米の谷間に埋もれた被爆者を囲む会」開く
1989/8/2
西ドイツ・ハノーバー市の市民合唱団(49人)が原爆慰霊碑前で鎮魂の歌を合唱
1989/8/2
「全損保の碑」盗難事件で犯行声明らしき手紙が広島市長と広島市政記者クラブに届く。「碑文の文面、建立のいきさつに問題がある」と指摘し、「平和公園監視団」を名乗る。全日本損害保険労働組合広島地方協議会が犯人グループを窃盗罪で告訴
1989/8/3
広島市で日本原水協の原水禁1989世界大会国際会議が始まる。28カ国37組織、15国際・地域組織から69人の海外代表が参加。世界69カ国を結んだ反核国際共同行動「平和の波」もスタート
1989/8/3
原水禁国民会議などの平和行進相次ぎ広島市入り
1989/8/3
ニューヨーク・タイムズがガー・アルペロビッツ氏の「原爆を投下すべきだったか」と題する評論を掲載。「米国人は第二次世界大戦を早期に終結する上で原爆投下は必要だったと教えられているが、政府公文書はこうした見方を否定している」と述べ、戦争終結の最大理由は「ソ連参戦と結論づけている」と分析
1989/8/3
米ロサンゼルス市が広島の「平和の灯」永久保存を決める
1989/8/3
「伯父を助けてくれた人を教えて」-。日本原水協の原水禁世界大会に参加のスリランカ代表、ムテツウェガマ・アーナンダ仏教徒教育研究所長が広島で被爆した伯父、ムテツウェガマ・ダーメシュワラさんの詳しい被爆状況を尋ねる。伯父は布教活動で広島滞在中に被爆、1964年、スリランカに帰国し72年に68歳で死去
1989/8/3
ポーランド・アウシュビッツ国立博物館のK・スモーレン館長が中国新聞の取材に「黒瀬町は死蔵の遺品を早く返して」と怒りを示す
1989/8/4
広島平和美術協会など主催の「第35回広島平和美術展」が県立美術館を主会場に始まる
1989/8/4
「年々増える被爆者のがん。入院患者の32.4%」-。広島赤十字・原爆病院が診療白書
1989/8/4
韓国原爆被害者協会(辛泳洙会長)が「被爆44周年の1989年を機に在韓被爆者の医療費の自己負担分を協会が負担」と表明。9日に正式発表
1989/8/4
社会党の土井たか子委員長が広島赤十字・原爆病院を慰問
1989/8/4
1989年3月末現在の全国の被爆者手帳保持者数が前年より約3,400人少ない35万6,488人に
1989/8/4
西ドイツの平和団体「ピース・バード」が広島国際会議場で世界の子どもたちの平和を願う手紙、絵画展。11カ国の70通
1989/8/4
広島市で日、米、ソ、英、仏、中の6カ国の子どもたちが反核ミュージカル「ピースチャイルド広島89」を公演
1989/8/4
広島市で日米の高校生らが交流する「第12ユース・ピース・セミナー」(広島YMCAなど主催)開催。米から23人、日本側92人
1989/8/4
原水禁国民会議などの被爆44周年原水禁世界大会広島大会が開会。7,000人が参加。全民労連(連合)への新しい平和運動への期待の声強まる
1989/8/4
ジュネーブ軍縮会議地震専門家会議が、核実験探知の新探知網の1990年1月始動に合意
1989/8/4
原爆ドーム保存募金が1億円を突破し、1億3,000万円に。広島国際文化財団(山本朗理事長)が1,670万円を伝達、原水禁国民会議1,000万円、東京・品川区の270万円などの大口寄付が相次ぐ。原水禁は12月11日にも500万円を贈り、計1,500万円。国際文化財団も12月25日に第2次分762万9,690円を伝達し計2,436万円に
1989/8/5
広島市で26カ国81都市と国内38自治体の首長(代理)240人が参加し、第2回世界平和連帯都市市長会議始まる。テーマは「核兵器廃絶を目指して-核時代における都市の役割」。開会に先立ち、原爆資料館を見学。明石康国連軍縮担当事務次長があいさつ、米オハイオ州立大のチャドウィック・アルジャー教授、東京大の鴨武彦教授が基調講演。37人の被爆者を囲み懇談会
1989/8/5
広島県高校生平和ゼミナールなど主催の「NONUKESCONCERT89」が広島市で開催
1989/8/5
生協ひろしまなど主催の「89ヒロシマ虹のひろば」で、被爆者4人の証言による構成劇「いのちあるかぎり」が上演。劇団「銅鑼」の大峰順二さんが演出
1989/8/5
全電通、全電通被爆協が主催し広島市で「第1回平和フォーラムINヒロシマ」開く。500人が参加
1989/8/5
北海道広島町が原爆ドーム募金174万円を広島市に寄付
1989/8/5
「ヒロシマ・デー」全米に広がる。200カ所以上で多彩な催し
1989/8/5
広島市の平和記念式典に参列のため広島入りした宇野首相が米の子どもから送られた折りづるを荒木広島市長に手渡す
1989/8/5
世界平和連帯都市市長会議に参加の西ドイツ・ノインキルヘン市市長が自国の子どもたちが折った折りづる2,000羽を原爆の子の像に供える
1989/8/5
ろうあ被爆者の証言ー「手よ語れ」のビデオ版が全国手話通訳問題研究長崎支部(宮本美子支部長)によって完成
1989/8/5
反天皇制、脱原発などの視点でヒロシマを考える「89反戦反核広島集会」(松江澄実行委員長)が広島市で開催
1989/8/5
韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で20回目の慰霊祭。金宇相下関韓国総領事ら150人が参列。死没者名簿に新たに3人を記帳
1989/8/5
歌手の南こうせつさんらが広島市で「HIROSHIMA87-97コンサート」。衛星中継で東京、札幌、仙台、名古屋の4カ所にも放映
1989/8/6
広島市の平和記念公園で被爆44周年の原爆死没者慰霊式・平和祈念式。宇野首相をはじめ約5万5,000人が参加し、新たに死亡が確認された4,424人の原爆死没者名簿を奉納。世界平和連帯都市市長会議を代表し副会長都市のソ連・ボルゴグラード市長ら7人が献花
1989/8/6
荒木広島市長が平和宣言「…日本政府は、日本国憲法の平和主義の理念に立ち返り、緊張緩和に逆行することなく、軍事費の抑制に努め、世界の恒久平和実現のため、先導的な役割を果たすべきである。アジア・太平洋地域の国際的非核化の実現に向けて、関係諸国の協力のもとに積極的な平和外交を展開しなければならない…」
1989/8/6
第2回世界平和連帯都市市長会議が広島アピールを採択し、舞台を長崎に移す。アピール(1)各国の指導者は広島、長崎の地を訪れ、被爆の実相を知る努力を(2)世界の都市は青少年の平和教育と市民の平和意識の高揚に取り組む(3)すべての国は核実験を即時全面的に禁止(4)米ソは戦略核兵器の半減を直ちに達成し、少なくとも今世紀中に核兵器の全廃を実現-など
1989/8/6
山口市の「原爆死没者之碑」前で広島原爆忌・死没者追悼式
1989/8/6
高梁市落合町方谷林にある岡山県原爆慰霊碑前で原爆死没者慰霊・平和祈念祭。遺族ら100人が参列。慰霊碑は1972年に建立。岡山市東山墓苑の岡山市原爆被爆死没者供養塔前でも慰霊祭
1989/8/6
「福山市原爆被害者の会」(吉田悦三会長)が建設していた原爆死没者慰霊碑が完成し除幕式。200人が参列
1989/8/6
広島市視力障害者福祉協会が平和宣言を点訳し、広島市内の会員約360人と全国56の福祉団体に送る
1989/8/6
原爆被害証言者のつどいが主催し広島市で「原爆被害者証言のつどい」。全国から集まった約300人の若者が30人の被爆者の体験を聞く
1989/8/6
「ヒロシマ被爆二世の会」(川本美恵代表)が広島市で第1回被爆二世全国交流集会。約30人が参加
1989/8/6
広島市の中曽根首相の句碑前で「デルタ女の会」(浜村匡子代表)が「句碑は粗大ゴミに」と題しパフォーマンス
1989/8/6
被爆44周年のヒロシマを米ABC、AP、AFPなど報道機関が取材。12社、23人 1
989/8/6
中国新聞が世界初の原爆爆発の地、米ニューメキシコ州の「トリニティ・サイト」の歩みをまとめる。<1945年7月9日>ニューメキシコ州アラモゴード近くの砂漠に「ホワイト・サンズ実験場」(広さ6万4,000平方メートル)を造る<同7月13日>「トリニティ・サイト」と命名された実験場の一角に高さ30メートルの鉄塔が建てられ、最初の原爆実験用のプルトニウム爆弾の組み立て開始<同7月16日>午前5時29分45秒、初の核爆発<58年>「ホワイト・サンズ・ミサイル射撃場」と改名<65年>爆心地に記念碑を建立「世界初の核爆発の地」<75年>米国立史跡に指定
1989/8/6
三次市の樽井正行さんが1947年ごろの英文看板を掲げた原爆ドームの写真を所有。看板は「光と陰の原爆かわら」「爆心地を訪れた人の格好の記念品。このビルの真裏の西蓮寺跡で見つかったものです」など表示
1989/8/6
原爆詩「生ましめん哉」の詩を刻んだ記念碑が広島市の中国郵政局構内に完成し、除幕式。モデルになった広島市の小島和子さん、詩人栗原貞子さんらが参列
1989/8/6
大阪の「戦争犠牲者を心に刻む会」が主催し、広島市で「アジア、太平洋地域の戦争犠牲者に思いをはせ、心に刻む集会」。フィリピンから7人、マレーシアから1人招き戦争を加害、被害の両面から考える
1989/8/6
宇野首相が原爆資料館を見学の後、原爆養護ホームを慰問。記者会見で被爆者援護法について「一般戦災者との均衡上、問題がある」。非核三原則は「国是でありそれを守る」。「被爆者代表から要望を聞く会」でも在韓被爆者の渡日治療の再開に前向きの姿勢を示すにとどまる
1989/8/7
井伏鱒二氏の小説「黒い雨」が英語ドラマになりNHKの国際放送ラジオ・ジャパンで世界に放送
1989/8/7
全電通原爆被爆者協議会が組合員の被爆体験記「原子雲の下に生き続けて」を英訳し出版。「LIVING UNDERTHEATOMICCLOUD」
1989/8/8
広島ホームテレビが1988年につくった原爆特集番組「ひろしまの片隅で~福島町被爆小史」が、NHK長崎放送局で放送
1989/8/8
第2回世界平和連帯都市市長会議の長崎会議が始まる。「今、地球の平和を考える」をテーマにパネルディスカッション
1989/8/8
米ソが核実験検証で基本合意。それぞれが主張の方式を併用へ
1989/8/9
米反核グループがネバダ核実験場でデモ。22人が拘束される
1989/8/9
第2回世界平和連帯都市市長会議長崎大会、長崎アピールを採択して閉幕。長崎アピールは核兵器廃絶、軍縮問題などの他、人権、飢餓、貧困、環境問題に都市も取り組む決意を示す
1989/8/9
長崎被爆44周年の原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。小泉純一郎厚相ら約2万5,000人が参列、死亡が確認された2,272人の原爆殉難者名簿を納め、本島等市長、被爆者、遺族が「平和の泉」の水をささげる。本島市長が平和宣言で(1)被爆者のために速やかな国家補償の精神に基づく援護法の制定(2)外国に住む日本人および外国人被爆者に国内被爆者と同等の援護措置(3)長崎、広島の被爆者、核実験や原子力発電所等で被曝した世界の人たちのための国際医療センターの設置-を求める
1989/8/9
中国新聞が「忘れられたオランダ人被爆者」として長崎で被爆した捕虜4人を紹介
1989/8/10
日本原子力研究所が原子力船「むつ」の燃料棒腐食は「1980年当時の炉内の水質管理に手落ちがあったため生じた」と発表
1989/8/10
「全損保の碑」盗難事件で広島中央署が広島市中区の右翼宅など4カ所を家宅捜索
1989/8/11
ポーランド国立アウシュビッツ博物館から広島県賀茂郡黒瀬町に「アウシュビッツ平和記念館建設を条件に貸し出した強制収容所犠牲者の遺品を速やかに返してほしい」との正式書簡届く
1989/8/11
岡山市が主催し同市のデパートで「原爆の絵と写真展」。16日まで
1989/8/11
女優の吉永小百合さんが原爆ドーム保存募金に100万円寄付。テレビ新広島の「託す~広島へのメッセージ」の出演料
1989/8/11
米が1988年中に既にソ連国内4カ所に核実験の検証に利用できる地震観測所を設置し、89年に3カ所増設。ソ連側も見返りとして米国内5カ所の地震観測所のデータを得るほか、2カ所に観測所を設置
1989/8/12
広島市で被爆者運動にかかわる活動家らが「ディスカッション被爆体験とは-内から外から」(HE‐TO‐SHE研究会主催)。アリゾナ州立大のジェームズ・フォード准教授が「死の中の生命」の著者ロバート・リフトン氏について「罪の意識を強調しすぎて被爆者の戦後の世界観やモラルを学ぼうとしない」と批判
1989/8/12
ソ連が南ウラルのチェリャビンスク州にある核兵器用プルトニウム製造工場で軍用原子炉1基を閉鎖。同工場では1957年9月に住民1万人以上が避難する核廃棄物タンクの爆発事故。90年には2基閉鎖へ
1989/8/13
中国新聞が「多彩だった8・6番組」として記者座談会。平和記念式典を全国中継したのがNHKと、広島テレビ系列の日本テレビだけだった点を嘆く。式典中継のローカル化は2年前からの現象。NHKの衛星放送33時間ぶっ通し、中国放送のオーストラリアのアボリジニー被曝を扱った「核とブーメラン」、広島テレビのアウシュビッツとヒロシマを結んだ「未来への墓標」などを評価
1989/8/14
広島市の詩人月下美紀さんが宇品港を見下ろす元宇品小学校で詩と墨書の「平和へのひとりごと展」
1989/8/14
「原爆文学史」「原爆民衆史」などの著書のある関東学院女子短大講師長岡弘芳さん(東京・練馬区)が自殺。57歳。「原爆文献を読む会」などで活躍
1989/8/16
東京で開かれた「日独平和フォーラム」(小田実代表世話人)シンポジウムで本島等長崎市長が、社会党の土井たか子委員長に「被爆者援護法の対象に韓国・朝鮮などアジアの被爆者も加え、在日韓国・朝鮮人などに対する差別問題に真剣に取り組んでほしいと要望」
1989/8/17
大型客船で広島-長崎-韓国を巡回した「ピースボート」の一行260人が広島港に帰港
1989/8/18
広島や神奈川などのピースボイス高校生使節団が国連本部を訪れ、明石康国連事務次長に1万人の高校生の平和メッセージを渡す
1989/8/19
中国電力が山口県上関原発の立地環境調査の同意を関連漁協に申し入れ
1989/8/22
長崎市最後の大型被爆遺跡、市立渕中学校校舎の本格的な解体作業が始まる。同校の解体で原爆の惨状を語り継ぐ長崎市のめぼしい遺跡はすべて姿を消す
1989/8/24
新任のマイケル・H・アマコスト駐日米大使夫妻が長崎市を訪れ、平和公園で献花
1989/8/24
広島中央署が平和記念公園内の慰霊碑「全損保の碑」を盗んだ右翼団体幹部を逮捕
1989/8/26
中国新聞の連載「世界のヒバクシャ」が、オーストラリアの英核実験は1958年の大気圏内実験の中止後の63年まで「マイナー・トライアル」と呼ばれる小型実験として580回続けられた、と伝える
1989/8/28
盗難にあった「全損保の碑」が修復されて元の台座に。3カ所の傷はそのまま残す
1989/8/29
ポーランド・ワルシャワで9月1日から開かれる第4回世界平和都市会議に広島平和文化センターの高橋昭博事業部長ら2人が出発
1989/8/30
米国原爆被爆者協会の倉本寛司会長が、訪米中の海部首相に在米被爆者対策を訴える
1989/8/31
外務省が1990年度予算要求で在韓被爆者の渡日治療に伴う概算要求の見送りを決める。89年度分予算の実施見通しが立たないため
1989/8/--
広島市の小川新医師が、約40人の証言を集め被爆後の民間療法の実態をまとめる。核戦争防止国際医師会議(IPPNW)用に「原爆放射能と民間療法-民間の知恵」として英語版も出版
1989/8/--
広島県手話通訳問題研究会が聴覚障害者の被爆体験をまとめた「生きて愛して・目で聞いたもうひとつのヒロシマ」を出版。広島市の手話通訳ボランティア仲川文江さんが1981年から7年かけて聞き取り
1989/8/--
米バークレー市の公園に建設されている「平和の壁」に広島市の被爆二世の平賀広子さんのタイル画も組み込みへ。原爆の子の像の絵に「これはぼくらの叫びです…」の碑文をレタリング
1989/8/--
福山市の熊谷豊和さんが戦争の傷跡を背負った少年を主人公にした児童文学「チビ兵行進曲」を出版。汐文社
1989/8/--
山口県被団協会長でアララギ派歌人の竹内一作さん(宇部市)が原爆歌集第6編「21世紀への遺言」を出版。「閃光は一瞬にして広島を暗めたり拡がり昇る原子雲の下」
1989/8/--
広島市の榎野譲さんがヒロシマをテーマにした構成詩「水辺の祈り」を発刊
1989/8/--
愛知県原水爆被災者の会婦人部(亀沢深雪部長)が、手記集「原爆忘れまじ」をまとめる
1989/8/--
日本赤十字社広島県支部が、被爆者救護などをつづる「赤十字物語ー広島県支部百年の歩み」を発行
1989/8/--
原発分の電力料金支払い拒否を続けている「原爆の図丸木美術館」(埼玉県東松山市)が、送電を止められたため節電型家屋に改築を決める

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