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ヒストリー

ヒロシマの記録1988 2月


1988/2/1
4月に合併する広島原爆病院と広島赤十字病院の名称が「広島赤十字・原爆病院」に。広島原爆病院運営協議会(会長、荒木広島市長)が決める
1988/2/1
被爆エノキの世話をしている広島市基町小学校の子どもたちの姿を絵本にと、童話作家の長崎源之助さんと画家の二俣英五郎さんが取材。7月1日、東京の童心社から出版
1988/2/1
静岡県浜岡町の中部電力浜岡原子力発電所1号機で、再循環ポンプ2台が停止。手動で原子炉停止
1988/2/1
原子力船「むつ」の機能検査始まる。原子炉の制御棒を抜き原子炉の機器類を点検
1988/2/1
被爆二世の定期健康診断始まる。1月末までの申し込みは4,015人(「長崎年表」)
1988/2/2
中国電力の原発立地が最大の争点だった1987年4月の山口県上関町町長選で、山口県警が2日までに架空転入の中国電力職員6人を含む102人とこれを助けた50人の計152人を書類送検
1988/2/2
広島平和教育研究所(空辰男理事長)が1988年度版平和カレンダーを発行
1988/2/2
安保条約の「事前協議」をめぐり衆院予算委が紛糾。政府見解「事前協議は米国が申し出るものであり、随時協議では、事前協議の下で米軍の義務とされる事項を提起することは想定されていない」。社党は納得せず。6日、竹下首相が「随時協議でも核問題について米側にただすことはできる。しかし、現時点では核問題について協議を申し入れる意思はない」と述べ決着
1988/2/3
「ソ連国内で核事故発生か」の情報が世界をかけめぐる。株価操作をねらったデマの可能性が大
1988/2/3
広島原爆のキノコ雲を呉市内から撮影した写真を遺族が原爆資料館に寄贈。広島県佐伯郡廿日市町の石井絋三さん。撮影は投下約30分後の午前8時45分~9時
1988/2/4
荒木広島市長から国連軍縮局に「第3回国連軍縮特別総会(SSD3)で被爆地ヒロシマに発言の場を」との手紙届く
1988/2/4
国連のデクエヤル事務総長が、各国の元首に第3回国連軍縮特別総会(SSD3)に出席要請
1988/2/5
第3回国連軍縮特別総会(SSD3)準備委員会が、重要議題の調整がつかないまま閉会。二十一世紀の軍縮展望を提起する最終文書作成は本会議へ持ち越し
1988/2/6
全国原爆被爆二世教職員の会の結成準備会が、広島市で開く
1988/2/6
ソ連がセミパラチンスクで1988年初の地下核実験。タス通信が伝える
1988/2/6
「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名が3周年を迎え、広島県原水協などが街頭署名行動
1988/2/7
第3回国連軍縮特別総会(SSD3)に向け、ニューヨークでSSD3支持行動国際連絡会議開く。日本からは平和運動市民団体会議代表らが出席
1988/2/7
荒木広島市長がソ連の核実験に抗議電報。8日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1988/2/7
1989年10月に広島市で開く核戦争防止国際医師会議(IPPNW)のテーマが、「ノーモア・ヒロシマ-この決意永遠に」と決定
1988/2/8
韓国原爆被害者協会が、韓国人被爆者援護のためまず10億ドルを供与するよう日本大使館に要請。同協会は23億ドルの補償と原爆病院の建設を日本に要求中
1988/2/9
若者が米各地でホームステイしながらヒロシマを伝えるネバーアゲイン・キャンペーン(NAC)の第2期平和大使の6人決定。中国地方からは広島県安芸郡府中町の藤田博美さんと徳山市の篠田真理子さん
1988/2/10
月刊ミニコミ紙「非核自治体通信」が第36号で終刊。「非核自治体の数が全国自治体の三分の一を超え、目標を達成」。西田勝法政大教授が1985年3月に創刊
1988/2/10
山口折鶴の会(杉田信夫事務局長)が山口市に非核都市宣言の碑建設で「平和教育に役立つものを」と要望
1988/2/11
広島市の私立ほうりん幼稚園が本格的な平和劇「ヒロシマへ小人たちがやってきた」の発表会。東京都在住の童話作家大川悦生さんが書き下ろした台本
1988/2/12
長崎市で「広島・長崎宗教者平和会議」。宗教者平和憲章の作成決める
1988/2/12
広島市が原爆記録映画「ヒロシマ原爆の記録」の18年ぶり改定を決める。「ヒロシマ原爆の記録」は1970年8月製作
1988/2/12
四国電力伊方原発2号機で出力調整試験始まる。反原発グループが抗議行動
1988/2/13
エジプトの有力紙アルアハラムが「イスラエルはノルウェーと南アフリカの協力で1979年9月と86年3月5日、12月3日の3回、南極で核爆発実験を実施」と伝える。イスラエルは「ナンセンス」と否定
1988/2/13
ソ連の国営テレビが中距離ミサイルSS20の映像を初めて放送
1988/2/13
埼玉の病院で原爆小頭症の愛媛県今治市出身の下村盛長さんが死去。41歳。小頭症と気づかず、認定5カ月後の死。1978年に小頭症手当ができてから初の死亡
1988/2/13
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報
1988/2/13
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。タス通信が伝える
1988/2/14
首都圏の中学、高校の教師が東京で「広島修学旅行を語る会」を開く。4都県40校、70人参加
1988/2/14
日本被団協が第3回国連軍縮特別総会(SSD3)に被爆者代表団派遣を決定。30人目標に募集
1988/2/15
第3回国連軍縮特別総会(SSD3)へ参加する日本の非政府組織(NGO)が分裂発足。日本青年団協議会、地婦連、生協連、被団協、宗教NGOで構成する「SSD3の成功に向けての市民準備会」と、原水協(共産党系)、日本科学者会議、日本平和委員会、宗教者平和協議会、婦団連などが呼びかけた「SSD3に核兵器のすみやかな廃絶を要請する日本連絡会」
1988/2/15
「日本の原発事故、故障の2割が人為ミス」-。通産省や電力会社が国際原子力機関(IAEA)主催の「マンマシン・インターフェース国際会議」で発表
1988/2/15
米がネバダで1988年初の地下核実験。地下核実験上限の150キロトンに近い大型
1988/2/15
米ソの核実験禁止交渉第2ラウンドがジュネーブで始まる
1988/2/15
ソ連の13日の地下核実験に抗議し、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1988/2/15
仏国民議会議員5人が原爆資料館を見学し、慰霊碑に参拝。団長のエチエンヌ・パント日仏友好国会議員グループ会長が「動転する思いで見学した。しかし、フランスを守るには、核保有もやむを得ない」と語る
1988/2/16
神奈川県藤沢市が作成した小、中学生の平和ツアー報告書「平和へのみちしるべ」が広島市に届く 1988/2/16
ソ連が東ドイツに配備したSS12の解体、撤去始まる
1988/2/16
広島市が荒木市長の諮問機関である平和問題調査会(委員長、永井道雄国連大学長補佐)を国連大学で開き、1988年の平和推進事業計画を説明、意見を聞く
1988/2/16
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1988/2/18
15日の米地下核実験に抗議し、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1988/2/18
核禁会議が第3回国連軍縮特別総会(SSD3)に独自の代表団30人程度の派遣決める
1988/2/18
広島市が「原爆被爆者対策の歩み」をテーマに、原爆二法制定当時の関係者12人の座談会
1988/2/19
米・西ドイツ首脳会談で西ドイツ配備の戦術核の全廃と非核地帯設置に反対で合意
1988/2/19
外務省の招きで来日している南アフリカのヌタト・モトラナ博士が原爆資料館を見学。同博士は黒人居住区ソウェト10人委員会委員長
1988/2/20
原爆資料館の保存資料4点をフランス国立科学技術産業博物館(パリ)特別展へ発送。8時15分で止まった目覚まし時計、溶けて固まったラムネ瓶など
1988/2/21
「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」(HIP=小倉桂子代表)と外国人グループ「核問題資料室」(HNRC=世話人、デビー・オーエンさん)が、広島平和記念館で太平洋の核問題をテーマに国際交流討論会。外国人30人を含む70人が参加
1988/2/22
中国の毛沢東主席が1958年8月、金門、馬祖両島問題で米軍が介入してきた場合、原爆使用をソ連に提案し断られた-。米紙ニューヨーク・タイムズがソ連グロムイコ最高会議幹部会議長の回顧録を入手し伝える
1988/2/23
第3回国連軍縮総会(SSD3)へ向け原水禁国民会議(社会党・総評系)などが日本NGOとして3つ目の組織を発足。「今年こそ非核・軍縮・平和を第3回国連軍縮特別総会に向けて行動する会」
1988/2/23
米ワシントン州ハンフォードに近いリッチランド高校で、学生投票の結果、核爆発を象徴するキノコ雲が圧倒的多数でシンボルに
1988/2/24
東ドイツ外務省が「国内配備のソ連短距離核ミサイルSS12撤去を25日から開始」と発表
1988/2/24
原爆資料館の入館者が通算3,000万人を突破。外国人は1981年度の8万8,000人を最高に年間7万人前後が入館
1988/2/25
広島市を訪れたノルウェーのホーコン・フレイホフ駐日大使が原爆資料館を見学、慰霊碑に参拝
1988/2/25
第3回国連軍縮特別総会(SSD3)での広島、長崎市長の発言が確実に。河合護郎広島平和文化センター理事長らの要請に明石康国連事務次長(軍縮担当)が「意義深い」と発言
1988/2/25
カトリック広島司教区がインドネシアで捕虜になったオランダ人からの花輪を原爆慰霊碑に献花
1988/2/26
広島県医師会が、1989年度から「在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会」(石田明会長)の活動を肩代わりし「在米被爆者の里帰り治療を医師会事業で取り組む」と発表。年間5人程度
1988/2/26
広島県医師会の第6次在米被爆者検診医師団のまとめで、がん患者が目立ち始めたことが判明。被爆者376人と被爆二世3人の計379人を検査、68.1%に異常
1988/2/26
広島平和文化センターと長崎平和推進協会が「軍縮NGOニューヨーク委員会」(マリー・B・レイスン議長)に、同委員会機関誌「軍縮タイムス」の購読料として1万ドルを寄付
1988/2/26
「伊方原発を考える松山市民の会」(伊達泰介代表)のメンバー241人が四国電力などを相手取り「1987年10月と88年2月に実施した伊方原発2号機の出力調整試験は違法」と原子炉等規制法違反で松山地検に告発
1988/2/27
「原爆の図」ヒロシマ展を見る会(代表、森滝市郎広島大名誉教授ら8人)が発足
1988/2/28
東京で太平洋の核被害を考える草の根反核集会。300人が参加
1988/2/29
広島市が平和記念公園の花木を「平和の花」として修学旅行生に配ることを決定
1988/2/--
長崎県原爆被爆二世教職員の会が三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆した人たちの手記を集めた「長崎精機原子爆弾記」を39年ぶりに復刻。大橋工場では当時、約6,000人が働き2,300人が犠牲に
1988/2/--
「黒い雨」降雨地域解明のため、瓦の残留放射能測定調査に着手。奈良教育大の長友恒人・助教授と広島大原医研の沢田昭三教授
1988/2/--
原爆ドーム(元広島県産業奨励館)の丸屋根の製作者の名前分かる。広島市の山県百太郎さん
1988/2/--
東京大・広島大が共同研究で、広島原爆の威力は従来よりも2割強力な18キロトンと発表。小佐古敏荘東大助教授ら。広島原爆は長年12.5キロトンとされ、1987年3月に15キロトンに修正したばかり

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