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ヒストリー

ヒロシマの記録1988 3月


1988/3/1
広島県原水協などが広島市で「核兵器廃絶・アジア太平洋非核化・1988年3・1ビキニ・デー広島集会」開く。150人が参加
1988/3/1
日本宗教者平和協議会が焼津市の弘徳院で故久保山愛吉さんの墓前祭
1988/3/1
非核自治体運動の連絡通信網、「非核ネットワーク」が結成。西田勝法政大教授が中心になり「非核自治体インフォメーション」を年4回、発行
1988/3/1
市民10団体で構成する「SSD3の成功に向けての市民準備会」が、東京で1,000万人署名始める
1988/3/1
「月刊ザ・カープ」3月号が、広島球場もドームがほしいの4コマ漫画で「原爆ドーム」の名称使う。広島県被団協、広島市原爆被爆教職員の会などが「原爆ドームを冒とく」と抗議。4月号に謝罪文掲載へ
1988/3/2
日本原子力産業会議が1987年の世界の原子力発電動向を発表。8カ国が20基の原発計画を撤回や先送り。ソ連は4基の建設中止
1988/3/3
動力炉・核燃料開発事業団の日本初のウラン濃縮原型プラント1期工事が人形峠事業所で完成
1988/3/5
全国原爆被爆二世教職員の会が広島市で結成大会。会長に長崎県原爆被爆二世教職員の会の平野伸人会長。広島、長崎、大阪などから70人参加
1988/3/5
マンハッタン計画に参加したノーベル物理学賞受賞の米カリフォルニア大オーウェン・チェンバレン教授が、原爆資料館を見学。「攻撃を受けた人々の痛みがよみがえってくる。過ちを繰り返してはいけない」
1988/3/6
放射線影響研究所の秋山実利放射線生物学部長らが、被曝線量の精密な測定方法を開発
1988/3/6
広島市の平和記念公園で原爆詩人峠三吉の没後35周年碑前祭開く
1988/3/7
故周恩来中国首相の生誕90周年を記念する追悼文集「尽きぬ思い」が発売。中国の原爆開発秘話を掲載。「1964年10月16日の最初の核実験は失敗に備え2発用意」「文革中に1度、水爆実験に失敗」
1988/3/8
元気象研究所研究室長の増田善信さんが「原爆投下直後に降った『黒い雨』の降雨地域は1945年調査の4倍」と発表。1987年5月の増田さんの発表の2倍
1988/3/8
原子力委員会が核ジャックに備え、核物質防護、核物質による危険、脅迫罪などを盛り込んだ原子炉等規制法の改正案を了承。11日の閣議で決定、国会提出へ
1988/3/8
長崎県評婦人協議会など4団体でつくる3・8国際婦人デー実行委員会が、300人の「人間の鎖」で長崎市役所を囲み、非核都市宣言の早期実現を訴え(「長崎年表」)
1988/3/9
外務省が「世界の文化遺産・自然遺産保護条約」の指定遺産として原爆ドームを検討
1988/3/10
米ネバダ核実験場での抗議行動「ネバダ行動」に参加する広島県原水禁代表の3人が出発。12日、実験場前で5,000人が抗議行動。反核運動家のダニエル・エルズバーグ博士ら1,100人が実験場内に侵入し逮捕
1988/3/10
アニメ「はだしのゲン」が米テキサス州ダラスで初上映会。作者の中沢啓治さんも参加。
1988/3/12
米のネバダ行動に連帯し、広島市でも原爆慰霊碑前で核実験に抗議の座り込み
1988/3/13
中米ニカラグアのエルネスト・カルデナル文化相が原爆資料館を見学
1988/3/14
広島「憩いの家」を建設した在仏の作家エディタ・モリスさんがパリで死去(「広島市資料」)
1988/3/15
西ドイツ・ハイデルベルク大の日本学研究室に「原爆文庫」を開設したウォルフガング・シャモニ教授が、広島市を訪れて図書を寄贈した被爆者らに礼
1988/3/15
放影研の専門評議員会が始まる。熊取敏之放射線影響協会理事長や米ローレンス・リバモア国立研究所のモーティマー・メンデルスゾーン副所長らが出席。17日、染色体異常の新測定法導入など勧告
1988/3/15
広島県立ろう学校の生徒らが被爆瓦集め。ピース・ガーデンを造っている米アーカンソー州のアーカンザスシティーろう学校に贈るため
1988/3/16
原爆被害者相談員の会(鈴木勉代表)が「ヒバクシャ-ともに生きる」第6号を発行
1988/3/17
広島で被爆した移動演劇隊「桜隊」を映画化した「さくら隊散る」が完成。新藤兼人監督
1988/3/18
放射線影響研究所で、放射線感受性をテーマにワークショップ始まる。20日、遺伝子レベルの研究促進などを提言し閉会
1988/3/18
1987年の山口県上関町長選挙での架空転入問題で、同県議会が中国電力に文書で注意を申し入れ
1988/3/18
竹下広島県知事が県議会で「黒い雨の降雨地域全域を被爆地に指定するよう国に働きかけ」と答弁
1988/3/19
1987年7月に被爆者の遺骨64柱が見つかった広島市の「縮景園」で原爆犠牲者慰霊碑の除幕式。「広島県縮景園の原爆犠牲者供養会」(会長、上田宗源・茶道上田宗箇流家元)が主催
1988/3/20
東京で「在韓被爆者の援護問題を考える」シンポジウム。実行委員に平岡敬中国放送社長、伊東壮山梨大教授、評論家の中島竜美氏ら。韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長らも参加
1988/3/21
広島県原水禁などが「3・21ヒロシマ行動」で、第3回国連軍縮特別総会(SSD3)の成功に向けたシンポジウム開く
1988/3/22
放射線影響研究所が、被爆者の後障害の日米共同研究40周年記念式典。ABCC初代所長のカール・テスマー氏、厚生省国立予防衛生研究所広島支所の初代支所長槙弘氏ら250人が出席
1988/3/22
日本被団協が核廃絶と被爆者援護法制定を訴え国会、核保有国の大使館へ要請行動。
1988/3/22
米国務省内に新設した「核戦争危機軽減センター」開所式。シュルツ米国務長官とシェワルナゼ・ソ連外相が出席。米ソ両国間で小型コンピューター、ファクシミリなどで緊急時に詳細な情報交換可能に
1988/3/24
広島から福岡県八女郡星野村へ持ち帰って燃え続けていた「原爆の火」が第3回国連軍縮特別総会(SSD3)の開かれるニューヨークに出発。星野村役場前の「平和の塔」で採火式。「原爆の火」は旧陸軍兵士として広島にいた同村の山本達雄さんが持ち帰り燃え続ける
1988/3/24
藤本孝雄厚相が衆院社会労働委員会で「在韓被爆者の医療援助に誠実に対応したい」と答弁
1988/3/24
故永井隆博士が1949年、広島市の青年たちに贈ったバラを、広島市役所前から平和大通りに移植
1988/3/24
カナダ人写真家ロバート・デルトレダシーさんが米の平和賞「オリーブ・ブランチ賞」受賞。米核兵器工場、広島、長崎の被爆者などを収めた写真集「核兵器製造の現場」が評価
1988/3/24
放射線影響研究所の日米共同研究40周年記念式典が長崎市内で開かれる(「長崎年表」)
1988/3/26
山口県上関町長選不正転入事件で、山口地検が中国電力社員6人を含む118人の処分決める。7人を山口地裁に起訴、111人は山口簡裁へ略式起訴
1988/3/26
長崎市の平和公園で第3回国連軍縮特別総会に送る「長崎原爆の火」採火式(「長崎年表」)
1988/3/29
日本生活協同組合連合会の「第1回少年少女ヒロシマの旅」に全国から500人参加。3日間。小学4年から高校生まで
1988/3/29
広島赤十字病院と広島原爆病院の共同新築棟の落成式
1988/3/29
原水禁、総評被爆連などが政府と国会に被爆者援護法制定を求め中央行動
1988/3/30
被爆建物の広島銀行銀山町支店の取り壊しが決定。ギリシャ建築風の3階建て。1937年、広島合同貯蓄銀行の本店として建築、45年7月から警察の要請で広島東警察署として使用。被爆直後は広島県庁が入り、救援活動の基地に。50年から広島銀行支店に
1988/3/31
広島、長崎の原爆製造過程を追った「原子爆弾の誕生」(THEMAKINGOFTHEATOMICBOMB)の著者、リチャード・ローズさんが1988年のピュリツァー賞ノンフィクション部門受賞
1988/3/--
動力炉・核燃料開発事業団が茨城県東海村のクリプトン回収技術開発施設で、東海再処理工場から放出された放射性廃ガスの回収ホット(実物)実験を開始
1988/3/--
1950年代後半から60年代半ばにかけ、在日米軍の爆撃部隊は韓国を前進基地とした中国への核攻撃任務に就いていた-。元米パイロットが雑誌「航空ファン」で明かす。埼玉県ジョンソン基地に展開のB57。韓国群山基地で戦術核兵器を搭載して警備待機
1988/3/--
米が将来予想される欧州から日本へのプルトニウム輸送について「緊急時を除き、米本土への着陸と上空を飛ぶ空輸ルートは認めない」方針を決定
1988/3/--
二科会評議員の吉野正明さんが広島原爆病院に新作「ベニスの大競艇」を寄贈。3作目の寄贈
1988/3/--
全国原爆被爆教職員の会(石田明会長)が「被爆教職員-ここまで生きてきて」を発行

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