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ヒストリー

ヒロシマの記録1988 7月


1988/7/1
米ソがINF全廃条約の履行確認で査察始める。まずデータと実物を照合査察
1988/7/1
ワシントン州ハンフォード、テネシー州オークリッジなど全米17の核施設の放射能汚染除去には最高1,100億ドル(約14兆7,000億円)の経費が必要-。エネルギー省が発表。ハンフォード(480億ドル)、サバンナリバー(125億ドル)、ロスアラモス(26億ドル)、オークリッジ(19億ドル)、ネバダ核実験場(14億ドル)、ローレンス・リバモア(13億ドル)
1988/7/2
在韓被爆者渡日治療広島委員会の観光ビザによる治療受け入れで、2人が広島入り。朴源釦さんと石末仙さん。渡日治療広島委員会は政府レベルの渡日治療打ち切りから1年後の1987年11月以来、計10人を観光ビザで受け入れ。今回は6月に治療継続を決めて初の来日
1988/7/3
広島県被団協(佐久間澄理事長)が総会。役員改選で中本剛事務局長が副理事長、事務局長に末宗明登事務局次長
1988/7/3
中国海軍が東シナ海で初の核戦争演習を実施。4日付人民日報が伝える
1988/7/4
反核平和の火リレー(広島県青年婦人平和友好祭実行委員会主催)が、広島県内一周に向け平和記念公園をスタート
1988/7/4
平和記念公園の平和の池で水漏れ補修工事始まる
1988/7/5
広島市が引き取り手のない遺骨770柱の原爆供養塔納骨名簿を全国に発送
1988/7/7
ジュネーブ軍縮会議夏会期が開幕
1988/7/7
米がネバダで地下核実験。8月からの米ソ合同査察実験を準備するソ連科学者グループ30人も65キロ離れた地点で立ち会う
1988/7/8
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1988/7/8
庄野直美広島女学院大教授の「TheLegacyofHIROSHIMA」、長崎の医師塩月正雄さんの「DoctoratNagasaki」、被爆者25人の証言を集めた「HIBAKUSYA」の3冊が、外務省所轄団体の出版文化国際交流会の国際出版文化賞を受賞
1988/7/8
南方特別留学生として広島で被爆したマレーシアのマラ工科大日本語センターのアブドル・ラザク教授が、マレー語で被爆体験をまとめた「DEBUHIROSHIMA」を出版、広島を訪れて知人に紹介。発行は1987年12月
1988/7/9
インドの人気俳優で国会議員のスニル・ダッタさんら12人が長崎-広島平和行脚に出発。インド映画監督、大学助教授、州議会議員、学生など多彩な顔ぶれ。インドの非暴力思想に根ざす平和運動を実践。8月4日、広島着
1988/7/10
被爆者らが7日の米地下核実験に抗議し、原爆慰霊碑前で座り込み。南方特別留学生の被爆者マレーシアのアブドル・ラザクさんも参加
1988/7/10
松江市で島根原発2号機の試運転に反対する市民集会。1,800人が参加
1988/7/10
日米両政府が日本向けプルトニウム返送問題で、海上輸送方式も新日米原子力協定の包括同意対象とする方針固める
1988/7/10
NHK広島放送局が開局60周年記念で、テレビドキュメンタリー番組「ノーマン・カズンズ~平和の使途・その知られざる肖像」を放送
1988/7/10
ナガサキ平和映画祭の上映作品「TOMORROW/明日」(黒木和雄監督)にちなみ、長崎市で被爆跡を巡回する反核ウオークラリー。原作は、原爆投下の「明日」の運命を知らず日常生活を送る長崎市民を描いた井上光晴さんの「明日・1945年8月8日・長崎」
1988/7/11
広島市内の被爆者の過半数が60歳超す。平均年齢61.2歳。全国の被爆者健康手帳保持者は35万9,931人(1988年3月末)。87年に比べ2,616人減
1988/7/11
中国電力・島根原発2号機が試運転を始め21分後に故障停止。発電機や変圧器に異常信号
1988/7/11
運輸省航空局が原子力発電所の上空を飛行しないよう航空6団体に通達。1969年7月に通達済みだが、米軍ヘリが四国電力伊方原発近くに墜落し、改めて通達
1988/7/12
広島市立幟町小の千羽づる集会にブラジル移民被爆者、故平野礼三さんの遺族3人が出席。平野さんは戦後、技術者としてブラジルに移住、ブラジル原爆被害者協会の幹事をつとめ亡くなるまでに4回広島に治療のため帰国。7月27日、死去
1988/7/13
中国電力・島根原発2号機故障は初歩的な配線ミスが原因と分かる
1988/7/13
中国新聞が連載企画「ヒロシマ精神養子」を掲載。手紙の翻訳を担当した吉岡一郎広島大名誉教授が回顧。「1950年から3年間、延べ100人の翻訳を世話」。山下義信さん回顧「精神養子には最初抵抗を覚えました。多くの孤児をつくり出した原爆投下国の世話になりたくない、という気持ちからです。私より当時、育成所の所長をしていた妻の禎子(1962年、60歳で死去)の方が熱心でした。51年1月から米の社会福祉施設に視察に行き、精神親8人と会って、見方が変わりました」。「土曜文学評論」の1949年9月17日号の「4年後のヒロシマ」の抜粋も掲載。ノーマン・カズンズ氏「(子どもたちの救済になぜ、それほどの反応があったのかと聞かれて)米では政府の行為による責任は政府がとるのが原則。しかし、子どもたちは日々成長しており、政府と議論している余裕はなかった。あの運動は政府が犯した過ちに対する市民の償いの行動」
1988/7/14
原爆養護ホーム「舟入むつみ園」のお年寄り24人が平和記念公園内の原爆慰霊碑に参拝。10回目
1988/7/14
広島市でシンポジウム「いま非核・平和と朝鮮を考える」(同実行委員会主催)開く
1988/7/15
中国電力が島根原発2号機の試運転再開
1988/7/16
広島市の唐津幹雄さんが、父の形見の被爆仏像を原爆資料館に寄贈
1988/7/18
核禁会議(民社党・同盟系)が、韓国被爆者診療センターに総額230万円の医療器具の寄付決める
1988/7/19
米民主党が政策綱領採択。核実験全面禁止を盛る
1988/7/20
広島市の安田女子高「平和デー」でピース・ボイス(黒坂正文氏主催)の代表として国連を訪問する正路順子さんに同校生徒らがメッセージ託す
1988/7/20
兵庫県西宮市で原水禁西宮市協議会と市が被爆資料展。約300点の資料展示
1988/7/21
原子力安全委員会が日本原燃産業の青森県六ケ所村の商業用ウラン濃縮工場建設で「安全性は確保できる」との答申を首相に提出
1988/7/23
在韓被爆者玄正子さんの半生を大阪府立松原高校の生徒らが「イルボンサラム(日本人へ)-心の叫び」と題し劇化、広島で上演
1988/7/23
広島県、市が主催する「黒い雨に関する専門家会議」のメンバーが決まる。重松逸造放影研理事長、阿波章夫放影研遺伝学部長、鎌田七男広島大原医研教授ら
1988/7/23
中国新聞労組が、原爆で亡くなった従業員の遺族からの聞き取りを記録した「消えたペン」を出版。126人の新聞労働者犠牲者のうち中国新聞72人と合同新聞(現山陽新聞)の遺族1人から取材。汐文社
1988/7/24
岡山県経済連のくだもの娘の一行が広島赤十字・原爆病院を訪れ、桃400個をプレゼント
1988/7/25
峠三吉氏らが編集した詩集「原子雲の下より」(1952年)の未収録作品の一部28編を「暮しの手帖」8・9月号が掲載。87年に峠氏の親類宅に眠っていた419人分、約500編が見つかり36年ぶりに日の目
1988/7/25
大阪府立柴島高の生徒が、原爆と障害者、在日朝鮮人らへの差別などをテーマにした構成詩「心の中のヒロシマ」を広島市で発表
1988/7/25
生協連、日本被団協など6団体が東京で「核兵器のない東京を!88平和のつどい」開く
1988/7/25
国際公務員労連(PSI、本部フランス)と自治労が、広島市で初の「非核平和国際公務員会議」。21カ国51人の海外代表を含む200人が参加
1988/7/26
大阪府枚方市がチャーターした「平和の船」が広島入り。北牧一雄市長をはじめ700人の市民が、原爆資料館を見学し原爆慰霊碑に参拝
1988/7/27
ピース・ボイス高校生使節団が国連に1万5,000人の平和メッセージを届ける
1988/7/27
平和都市宣言をしている大阪府枚方市の「平和の船」が長崎寄港、同市の市長ら690人が平和記念像を訪れ、被爆体験を聞く(「長崎年表」)
1988/7/29
ヒロシマ・アウシュビッツ委員会(桑原英昭会長)が、広島県黒瀬町に「1989年3月までに平和記念館を着工しないなら、遺品をポーランドに返すべき」と要請
1988/7/29
在日韓国居留民団広島県地方本部が、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の平和記念公園移設を広島市に要請
1988/7/29
「愛と平和のバラード・峠三吉文学資料展」が、広島市立中央図書館で始まる。約200点を展示
1988/7/29
広島市で「第15回広島平和音楽祭」(同実行委員会、広島テレビ主催)。第1回に参加した美空ひばりさんが2回目の参加、「一本の鉛筆」などを披露
1988/7/30
ギリシャの青年が、広島市の平和記念公園から長崎市までの平和マラソンに出発。平和団体「エディエ」のスタブロス・スタブロポウロスさん
1988/7/30
東京で「核戦争に反対し、核兵器の廃絶を求める医師・医学者の集い」。全国から300人が参加
1988/7/30
東京・新宿区役所に広島、長崎で採火した「平和の灯」と「誓いの火」を合わせた「平和の灯」点灯。1986年に平和都市宣言した区の平和事業の1つ
1988/7/31
中国新聞が1945年8月6日に生まれた広島市の山口哲弘さんの元気なその後を伝える。連載企画「助産婦のヒロシマ」
1988/7/31
東友会(東京都被団協)が東京・品川の東海寺で開いた第24回原爆慰霊祭で、広島、長崎の被爆石で改築した「原爆犠牲者慰霊碑」を除幕
1988/7/31
広島市中区の旧袋町国民学校を1944年3月に卒業した児童ら42人が同窓会。学籍簿消失のため、袋町小に残っている名簿には13人の名前だけ記載
1988/7/--
原爆資料館が点字パンフレットを初めて作成。「原爆被害の概要」「広島平和記念資料館-ヒロシマを見つめて」「平和記念資料館」の3種類。点訳ボランティア吉岡恭壮さんの奉仕で作成
1988/7/--
1950年代を中心に精神養子運動で米の養親と養子の子どもたちが交わした手紙500余通が広島市公文書館に現存。広島戦災児育成所から同市育成所、市童心園(1960年)、市立皆賀授産所と受け継ぎ公文書館へ
1988/7/--
広島市の児玉辰春さんが監修したスライド「風鈴」完成へ。被爆女性に頼まれ、首を絞めた幼い少女の心の傷を描く
1988/7/--
反戦被爆者の会の小西ノブ子元会長の遺稿集「炎の巡礼者」が刊行。広島電鉄本社で被爆、後に学徒動員中に被爆した一人息子を失う。戦後は組合活動に参加。広電労組婦人部長、婦人民主クラブ広島支部長、原水爆禁止広島母の会の「ひろしまの河」編集、反戦被爆者の会会長などを歴任、反骨を貫く
1988/7/--
1985年から7、8月に全国を巡演し広島、長崎の被爆体験を語り継ぐ朗読劇「この子たちの夏-1945・ヒロシマナガサキ」(地人会公演)が7月中旬の三重・津リージョンお城ホールで100回公演
1988/7/--
広島市安佐北区安佐町小河内に原爆犠牲者の慰霊碑建立
1988/7/--
原爆投下後、血液検査に使った手製プレパラート3,200枚が広島赤十字・原爆病院で見つかる
1988/7/--
広島原対協の広島原爆被爆者健康管理所がレントゲンのデジタル画像診断システムを導入
1988/7/--
広島のテレビ局の8月6日を中心とした特集番組を中国新聞がまとめる。NHK広島=被爆死した旧広島県立第一高等女学校1年生が残した日記を再現するドキュメンタリー「夏服の少女たち」、マレーシアの南方特別留学生アブドル・ラザク氏を追う「わが心のヒロシマ」▽広島テレビ=核燃料サイクル基地が予定されている青森県の青森放送と共同制作の「核はいま」、広島光道小学校の疎開児童の43年を追う「いまヒロシマを」▽中国放送=世界の核被害者を追う「地球被爆」▽広島ホームテレビ=語り部の半生を描く「ヒロシマの片隅で」▽新広島テレビ=広島を描き続ける画家四国五郎さんを紹介する「描く」

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