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ヒストリー

ヒロシマの記録1988 10月


1988/10/1
広島県薬剤師会(渡辺寿彦会長)が同県医師会、歯科医師会に続きIPPNWに加入決める
1988/10/1
広島通産局が原子力広報推進室を設置
1988/10/3
西ドイツ・ハノーバーのスポーツ代表団25人が原爆資料館を見学、原爆慰霊碑に献花
1988/10/3
ピカ資料研究所(田原伯代表)が、平和記念公園と周辺のモニュメントを検証する「資料・広島平和記念公園」を発刊。公園内39基、周辺部21基の計60基
1988/10/4
「黒い雨に関する専門家会議」が広島県庁で第2回会議
1988/10/5
日本放射線影響学会が広島市で始まる。2年前に日米合同原爆放射線量再評価検討委員会が決めた新計算方式DS86の見直しについて論議。広大原医研の星正治助手らのグループがDS86の計算値と、被爆瓦などで測定した実測値の違いを報告
1988/10/5
国連軍縮フェローシップの一行25人がヒロシマ学習。広島大原医研の宇吹暁助手らが講演
1988/10/6
ソ連が大陸間弾道ミサイル(ICBM)SS11を内外記者団に初公開
1988/10/7
日本放射線影響学会が広島市で、ソ連チェルノブイリ原発事故シンポジウム。京大放射線生物研究センターの池永満生教授が「3万5,000~4万5,000人ががんで死亡するとのソ連の推計は妥当」と発表
1988/10/8
ソ連共産党機関紙プラウダが「チェルノブイリは町全体を取り壊す」と報道
1988/10/8
荒木広島市長が9月29日の中国核実験に抗議文
1988/10/10
米のロバート・リフトン・ニューヨーク市立大教授が、広島大で開かれた日本心理学大会で「被爆者と世界消滅の恐怖」と題し講演。核廃絶の必要性を訴える。12日、リフトン教授と夫人で作家のベティ・リフトンさんが広島「折鶴の会」と交流
1988/10/10
中国の9月29日の核実験に抗議し、広島県被団協の森滝市郎理事長らが原爆慰霊碑前で座り込み
1988/10/11
英グラスゴー北方のファースレーン海軍基地に停泊中の原潜リパルス管制室に平和運動家3人が侵入。数秒後に逮捕
1988/10/13
「被爆土で平和祈願のつぼを作りサミット首脳に送りたい」と岡山県英田郡作東町、真言宗大聖寺の福田寺大英さんが長崎市の平和公園の土40キロを採取。広島の土も採取へ
1988/10/13
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1988/10/14
岡山、鳥取両県にまたがる捨て石たい積場のウラン鉱石について、中国四国鉱山保安監督部が「健康に影響なし」と結果公表。動力炉・核燃料開発事業団に土砂の一部除去を指示
1988/10/14
在韓被爆者の渡日治療支援で、広島市でチャリティーコンサート。在韓被爆者渡日治療委員会の主催。オルガン奏者、日山かおるさんらが協力
1988/10/14
荒木広島市長が13日の米核実験に抗議文。16日、被爆者らが原爆慰霊碑前に座り込み
1988/10/14
長崎市立山里小学校の被爆校舎の壁が、故永井隆博士の郷里、島根県三刀屋町に寄贈される
1988/10/14
日本原燃産業が青森県六カ所村にウラン濃縮工場を着工。12年後の完成時には年間1,500トンSWUの処理能力
1988/10/15
第二次大戦中、米の日系人強制収容に反対し逮捕され1987年、44年ぶり完全無罪となったゴードン・ヒラバヤシさんが広島を訪問。義父のフロイド・シュモーさんが建てた南区皆実町1丁目の「ヒロシマの家」跡を訪問
1988/10/16
「1983年11月、NATOの軍事演習を実戦と勘違いしソ連は核ボタンを押す寸前」-。英日曜紙サンデー・テレグラフが新刊書「ザ・ストーム・バーズ」を引用し報道。同書は85年に西側に亡命したソ連の秘密情報機関、KGB要員とのインタビュー
1988/10/16
横浜市在住の被爆者黒川万千代さんがスイス・ジュネーブの平和団体「国連および関連機関職員軍縮・平和運動」(UNSMDP)の招きでヨーロッパ各地で被爆体験を証言へ
1988/10/16
第3回南米被爆者巡回医師団(団長・蔵本潔広島赤十字・原爆病院副院長、6人)が出発。今回は初めて被爆二世健康相談も。ブラジル、アルゼンチン、ペルー、パラグアイ、ボリビアの5カ国を訪問
1988/10/17
米疾病対策センターが、ワシントン州ハンフォード原子力施設周辺住民2万人の被曝調査をひそかに開始。NBCテレビなどが「1949年12月、同施設から放射性ヨウ素を含んだ煙が放出され住民がソ連チェルノブイリ原発事故の10倍の放射線に被曝」と報道
1988/10/17
在韓被爆者でソウル在住の呉福善さんが被爆者健康手帳を申請するため42年ぶり広島を訪問
1988/10/18
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。タス通信が伝える
1988/10/18
荒木広島市長がソ連核実験に抗議文。20日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1988/10/19
西ドイツ・ハノーバー市の広島訪問親善使節団18人が原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1988/10/20
中国電力島根原発2号機が試運転で100%出力運転
1988/10/20
広島市原爆被害者協議会井口支部が「許すまじ被爆体験記」を刊行
1988/10/20
鳥取のウラン鉱山跡下流の稲から放射性物質-。反原発5団体が京大原子炉実験所の小出裕章助手に調査を依頼し検出
1988/10/21
鳥取のウラン鉱山跡下流で生産の放射能汚染米を工業用米に。鳥取食糧事務所が方針
1988/10/21
ソ連紙「社会主義工業」が「10年前の1978年12月31日、ウラル地方のべラヤルスク原発で大火災があったが、放射能漏れはなかった」と報道
1988/10/21
広島県原水禁が理事会。1989年秋の総評解体後の原水禁運動の進め方をめぐり論議を始める
1988/10/21
炉内で座金紛失の日本原子力発電の東海第2発電所が、未発見のまま「11月末運転再開」と発表 1988/10/22
中国が華北で核攻撃を想定した大演習
1988/10/24
広島平和文化センターが米戦略爆撃調査団が撮影した原爆記録フィルム10本をビデオ化。一般用40本、マスコミ用20本
1988/10/24
四国霊場八十八番札所で結願寺の香川県長尾町の大窪寺に福岡県八女郡星野村の「原爆の火」を永久保存へ。原爆の火平和塔の建立式
1988/10/24
在韓被爆者を診察する核禁会議の第15次訪韓医師団が出発。土肥博雄広島赤十字・原爆病院第4内科部長、奥平信義マツダ病院整形外科部長、岩森洋中電病院整形外科部長、神徳通也三田尻病院長ら
1988/10/24
広島市の安田女子高と広島県高校生平和ゼミナールの高校生が、スウェーデンの平和団体「ライフ・リンク基金」の呼びかけにこたえ「平和のためのヒロシマメッセージ」を作成
1988/10/25
原爆の子の像のモデルとなった故佐々木禎子さんの母校、広島市立幟町小で「禎子さんをしのぶ」全校集会。命日の集会は1987年以来2回目
1988/10/25
「8・6を知らない子供が50%」-。日教組の札幌教育研究全国集会で千葉県大原町立大原中教諭が同校2年生のアンケート調査結果を報告
1988/10/25
仏がムルロア環礁で通算100回目の核実験。ニュージーランドの科学者が11月2日発表
1988/10/25
広島、長崎市が1989年8月に開催を計画している第2回世界平和連帯都市市長会議に向け70カ国、1地域の420都市に招待状発送
1988/10/27
インドネシアのジャカルタ市スポーツ交流団24人が原爆資料館を見学、原爆慰霊碑に参拝
1988/10/28
広島市が原爆資料館周辺を石畳に化粧直し始める
1988/10/29
浄土真宗本願寺派安芸教区が広島市でシンポジウム「第6回平和を願う念仏者の集い」
1988/10/29
東京都原爆被害者団体協議会(東友会=伊東壮会長)が、結成30周年記念シンポジウム。1958年11月16日に発足、日本被団協の中で主導的役割果たす
1988/10/29
中国電力が山口県上関町に「誘致に応じ原発立地調査をしたい」と28日付回答書を郵送
1988/10/31
大阪府守口市の三洋電機労働組合が電化製品26点(120万円相当)を広島赤十字・原爆病院に贈る
1988/10/31
米スリーマイル島原発事故で炉心の45%が溶融-。原子力国際会議で判明
1988/10/--
第3回国連軍縮特別総会(SSD3)に合わせて10万人の平和大行進を組織した米の反核組織SSD3全米連合が、700万円の赤字。行進に参加した日本の反核団体に資金援助要請
1988/10/--
「放射線被曝は少量でも、健康に悪影響を及ぼす危険性をある程度増す」-。米エネルギー省がオハイオ州ファーナルド核兵器工場の汚染問題に関する裁判で初めて認める。同訴訟は工場周辺住民1万4,000人が操業者の金属会社NLO社を相手どり3億ドルの損害賠償を請求

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