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ヒストリー

ヒロシマの記録1988 11月


1988/11/1
「原爆に夫を奪われて-広島の農婦たちの証言」(岩波新書)の英語版「WIDOWSOFHIROSHIMA」をマクミランプレスが出版。編者の神田三亀男さんに届く。ヨーク大日本語講師のタエコ・クランプ、同教授のジョン・クランプの夫妻が翻訳。1985年のドイツ語版に次ぐ
1988/11/3
荒木広島市長が10月25日の仏核実験に抗議文。5日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1988/11/3
「核兵器廃絶運動連帯」(代表世話人、伏見康治参院議員)が主催する「日米ソ国際フォーラム」の米ソ代表らが、原爆資料館を見学。元米国家安全保障問題担当大統領特別補佐官のジャン・ロダール氏、ソ連科学アカデミー米加研究所のビクトル・クレメニュク教授ら
1988/11/4
広島県安芸郡府中町の大呑美代子さんが、爆心地から800メートルの旧警察練習所で被爆死した夫・静男さんの遺品、サーベルと短刀を原爆資料館に寄贈
1988/11/4
岡山県が動力炉・核燃料開発事業団人形峠ウラン鉱山跡の放射性物質測定で「問題ない」と結論
1988/11/4
広島市立本川小学校の平和資料館見学者が、オープン半年で6,000人超す
1988/11/4
中国電力の山口県上関原発建設に反対する住民ら350人が広島市内をデモ
1988/11/5
仏がムルロア環礁で核実験。ニュージーランド科学・工業研究地震観測所が発表
1988/11/5
思想、信条を超えて核兵器廃絶について語り合う「国際平和フォーラムイン長崎」開く。6日、東京でフォーラム
1988/11/6
広島市の真言宗妙光寺の平和の鐘と鐘楼が完成。平和の鐘は人間国宝の香取正彦氏の作
1988/11/6
政府が在韓被爆者の渡日治療再開など治療援護策をまとめる。(1)治療のための渡航、滞在費負担(2)定期健康診断費拠出(3)治療費の拠出(4)医療機器供与(5)医療専門家の日韓相互往来費負担-など。総額4,200万円を1989年度予算に要求へ
1988/11/6
荒木広島市長が5日の仏核実験に抗議文。8日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み。広島市南区皆実町の日本たばこ広島工場前でも全たばこ労働組合広島工場支部の組合員が100回目の座り込み
1988/11/7
「科学者による国際平和週間」が始まる。3回目。1986年に始まり、米カリフォルニア州の「核時代の平和財団」が事務局。日本では日本科学者会議各県支部が天皇制問題などで講演やシンポジウム。12日、広島市で「市民とともに考える広島集会」開く
1988/11/7
国際ロータリーとロータリー財団による「ロータリー平和会議」が広島市で開幕。13カ国・地域の110人を含む660人が参加。国際ロータリーのロイス・アビー会長があいさつ。8日閉幕
1988/11/7
第3回在南米被爆者巡回医師団(団長、蔵本潔広島赤十字・原爆病院副院長)が広島県庁で帰国報告。ブラジルなど5カ国で118人を検診、被爆二世相談も
1988/11/9
英で戦略防衛構想(SDI)に絡むマルコーニ疑惑で、22歳の軍の電子専門家が自殺。23人目の犠牲者。英の超一級軍事機密の水中振動探知のコンピューター・シミュレーションをめぐり1987年3月以来、科学者の自殺、失跡相次ぐ
1988/11/10
島根県の「21世紀宗教者の会」が4万9,000人の署名を添え県に島根原発2号機の運転中止を訴え
1988/11/11
ヒロシマ・ピース・センター(鶴襄理事長)の谷本清平和賞受賞に決まった広島市特別名誉市民のフロイド・シュモーさんが広島入り
1988/11/12
荒木広島市長が12日のソ連核実験に抗議文。14日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1988/11/12
1980年ノーベル平和賞受賞者のアルゼンチン平和運動指導者アドルフォ・ペレス・エスキベル氏が原爆資料館を見学
1988/11/12
「デルタ・女の会」(浜村匡子代表)が、中曽根前首相の句碑建立1周年で、抗議の「霜月おんな『NO句碑』句会」開く。句碑建てて平和を祈るポーズだけこの句碑に虫もぬかづく気配なし
1988/11/12
岡山県苫田郡上斎原村の小学校長が青森県の原子力施設のPR広告に登場。「軽率」と非難浴びる
1988/11/12
ヒロシマ・ピース・センターがフロイド・シュモーさんに第2回谷本清平和賞を授与。一緒に「ヒロシマの家」を建設した広島市の矢野俊夫さんも出席
1988/11/12
大阪市原爆被害者の会婦人部のヒロシマの証言、ナガサキの証言集が完成し、発刊の集い
1988/11/12
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。目的は軍事技術向上。タス通信が伝える
1988/11/12
広島市で「留学生平和セミナー」(広島平和文化センター主催)。約60人が参加
1988/11/13
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)が16日の結成30周年を前に都内で記念式典。記念誌「沈黙から行動へ-東京のヒバクシャ30年の歩み」を出版。1955年4月、都築正男東大教授らの健康診断を受けた被爆者らがつくった「原爆被災者在京人会」が前身。同会は57年春、原爆医療法が制定されたのを機に解散したが、その後、地区組織の協議体として58年11月16日に東友会として発足
1988/11/13
中国電力の島根原発1号機が運転再開54分後に異常。手動で運転停止、調整後に運転再開
1988/11/14
フロイド・シュモーさんが、東宮御所に明仁皇太子夫妻を訪問。40年前、友人で当時、皇太子の家庭教師をしていたエリザベス・バイニング夫人の紹介で皇太子に会う。今回は小学生時代にボランティアで「ヒロシマの家」づくりに参加した池田行彦代議士の骨折りで訪問
1988/11/15
広島市の日銀広島支店保存で「中区文化を考える会」(二方マキ子代表)など市民団体が署名集めへ(11・16)
1988/11/15
パキスタンが核兵器を開発か。米のカーネギー国際平和財団が報告書
1988/11/16
米ソの水爆の父のエドワード・テラー博士とアンドレイ・サハロフ博士がワシントンで対面。和やかに意見交換したが、SDIをめぐっては対立
1988/11/18
広島市の旅館「新亀万」に「ヒロシマ修学旅行文庫」が開設。語り部の故坂本文子さんに送られた全国の修学旅行生からの文集を「ヒロシマ・ナガサキの修学旅行を手伝う会」(江口保会長)が収める
1988/11/18
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が1989年の広島第9回世界大会への招待者を発表。精神養子運動のノーマン・カズンズ氏、「核の冬」のカール・セーガン氏、マンハッタン計画のオーエン・チェンバレン氏、スジャトモコ前国連大学長、作家の大江健三郎氏ら
1988/11/19
広島「平和の鐘」の製作者香取正彦さんが死去。89歳
1988/11/19
広島市内の中学生による初の平和交流集会開く。17校180人の中学生らが参加、取り組みを発表 1988/11/19
井伏鱒二氏の「黒い雨」の中国語翻訳者、四川外国語学院講師宋再新さんが、父の恩師の森滝市郎広島県被団協理事長と対面。訳書は1984年「黒雨」と題し四川人民出版社から出版
1988/11/20
長崎県被爆二、三世総決起集会が長崎市で初めて開かれ、定期健康診断法制化を決議(「長崎年表」)
1988/11/21
画家丸木位里、俊さん夫妻が、広島市の昭法寺へ水墨画を贈る。6人の天女を描く「飛天の像」
1988/11/22
動力炉・核燃料開発事業団が岡山、鳥取両県の旧ウラン鉱山捨て石たい積場の放射線対策を発表。土砂除去や覆土実施へ
1988/11/23
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。タス通信が伝える
1988/11/23
荒木広島市長が23日のソ連核実験に抗議文
1988/11/24
仏がムルロア環礁で地下核実験。ニュージーランド地震観測所が発表
1988/11/24
荒木広島市長が仏核実験に抗議文
1988/11/25
ソ連(23日)と仏(24日)の核実験に抗議し、広島県原水禁や被爆者ら180人が原爆慰霊碑前で通算400回目の座り込み。広島県内28カ所、全国44カ所でも
1988/11/26
被爆建物の旧広島貯金局の取り壊し決まる。原爆詩人栗原貞子さんの「生ましめん哉」の舞台。栗原さんが初めて同ビル地下室を訪れる。12月1日、元職員の広島市、大戸絹江さんら11人が訪れる
1988/11/26
全国和紙ちぎり絵サークルを主宰する米子市の亀井健三さんが自作のちぎり絵5,000セットを広島市に贈る。「黒い雨」「白い影」など原爆3部作も
1988/11/27
竹下首相が長崎で原爆犠牲者のめい福祈る
1988/11/28
日本被団協が東京で被爆者問題シンポジウム。1980年の原爆被爆者対策基本問題懇談会(7人委)答申の問題点など指摘。1985年秋から86年春にかけ独自に実施した原爆被害者調査に基づく証言集「『あの日』の証言(その1)」を発行
1988/11/28
放射線影響研究所で免疫テーマのワークショップ始まる。座長に多田富雄東大医学部教授、マックス・クーパー米アラバマ大教授。29日、遺伝子レベルの研究促進を勧告し閉会
1988/11/30
日銀広島支店の保存を訴え、市民団体「中区文化を考える会」が街頭署名
1988/11/30
アリス・ハーズ夫人記念平和基金(代表、芝田進午広島大教授)の1988年度平和賞を「障害者と家族のくらしと権利を守る広島連絡会」(久保正道代表)が受賞
1988/11/--
動力炉・核燃料開発事業団が1950~60年代に開発した鳥取県内の旧ウラン鉱山坑内労働者や周辺住民に肺がんによる死亡が多発-。市民グループなどが調査
1988/11/--
広島市の被爆元警官本田和俊さんが、被爆した妻の健康回復と被爆者の健康を祈って徒歩で日本一周へ。最後の四国一周に挑む
1988/11/--
「88ヒロシマ・アピールズ・ポスター」が、全国カタログ・ポスター展で日本商議所会頭賞を受賞。田中一光氏のデザイン

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