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ヒストリー

ヒロシマの記録1987 8月


1987/8/1
広島市で1986年に続き2回目の「ヒロシマアートウィーク」始まる
1987/8/1
国鉄労働組合被爆者対策協議会が主催し、労使が14年前から出席していた国鉄原爆死没者慰霊式にJR西日本本社の出席のめどつかず
1987/8/1
長崎原爆被災者協議会顧問の宮田エキさんらが進めていた「長崎平和の母子像」が完成、除幕式
1987/8/1
広島平和文化センターが原爆記録写真66枚を北朝鮮に発送。15日から平壌で展示
1987/8/1
全日本民主医療機関連合会(民医連)が呼びかけ、東京で初の「核戦争に反対し、核兵器の廃絶を求める医師・医学者の集い」。270人が参加
1987/8/1
東京で日本原水協の「原水爆禁止1987年世界大会」国際会議始まる。16国際組織、36カ国の海外代表94人を含む280人が参加
1987/8/1
公明党が広島市で「第7回核兵器全廃と軍縮をめざす広島市民集会」
1987/8/2
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報
1987/8/2
ソ連がセミパラチンスクと北部のノバヤゼムリャ島で地下核実験。タス通信が伝える 1987/8/2
原水禁国民会議が広島市で被爆42周年原水爆禁止世界大会国際会議。「核時代を断ち切り、非核の社会と文化の実現をめざす」をテーマに海外代表34人を含め、100人が参加
1987/8/3
広島市で自治労の「非核自治体運動をすすめる全国交流集会」
1987/8/3
浜田市の僧職清水靖之さんら市民15人が広島市へ向け初の平和行進に出発
1987/8/3
「平和を祈り被爆地広島へ走ろう」と大阪府吹田市のジョギング愛好家が広島まで395キロの「吹田-広島平和・健康マラソン」に出発。1985年に続き2回目
1987/8/3
愛知県原水爆被災者の会婦人部(亀沢深雪代表)の手記集「原爆、忘れまじ」第3集が完成
1987/8/3
原爆で壊滅的な打撃を受けた中国新聞社の復興を描いた「もうひとつのヒロシマ」が、東京の社会思想社「教養文庫」で出版
1987/8/3
広島電鉄の市内電車に修理した被爆電車1両が加わり、現役の被爆電車が5両に
1987/8/4
原水禁国民会議の被爆42周年原水爆禁止世界大会広島大会が広島県立体育館で開会。約7,000人が参加
1987/8/4
広島市の世界平和記念聖堂で、横浜市のアマチュアコーラス「太陽の国合唱団」、藤原歌劇団合唱部、お茶の水女子大OG合唱団がベルディ作曲「レクイエム」を合唱
1987/8/4
広島のアマチュア・オーケストラ新広島フィルハーモニー管弦楽団が広島郵便貯金会館ホールで第1回平和コンサート「レクイエムinヒロシマ」。仏作曲家デュリュフレの「レクイエム」を演奏
1987/8/4
第1回アキバ・プロジェクトの招請記者ロドニー・バーカーさんが、長崎原爆投下機爆撃手フレデリック・アシュワース氏と「原爆投下を問うー核兵器の道徳性」と題し対談。「濃い色眼鏡をつけていたが、明るい光が目を射た。爆撃の衝撃波はちょっと機体が揺れただけ。われわれの関心は、残存燃料で沖縄まで無事つけるかどうかだった」。ニューメキシコ州のアルバカーキ・ジャーナルに掲載
1987/8/4
1954年のビキニ被災漁船員の追跡調査を進める高知県ビキニ水爆実験被災調査団(吉富啓一郎団長)が調査結果発表。「ビキニ海域で被曝した漁船は政府調査の856隻を上回る延べ1,000隻以上。追跡調査187人のうち40人が既に死亡、がんの死者は13人、白血病は3人」
1987/8/4
広島県被団協の森滝市郎理事長や原水禁世界大会国際会議参加の海外代表を含む100人が、2日のソ連核実験に抗議し原爆慰霊碑前に座り込み 1987/8/4
被爆直後の広島市援護課、社会課長などを務めた故矢吹憲道さんが残した公文書類が、倉敷市玉島柏島の円通寺で見つかる。広島児童文化会館の建設委員会名簿や趣意書など貴重な資料多数
1987/8/4
原爆投下後の長崎市内で被爆者の検診にあたった米ミシガン州立ウェイン医大のチャールズ・S・スチーブンソン名誉教授が反核ドキュメンタリー映画製作のため42年ぶりに長崎市を訪れる(「長崎年表」)
1987/8/5
原水禁国民会議の被爆42周年原水爆禁止世界大会広島大会に出席した社会党の土井たか子委員長が、広島原爆病院を慰問
1987/8/5
広島市で非核都市宣言自治体全国大会。89自治体、176人が出席
1987/8/5
被爆二世訪韓団が広島を出発。広島から全電通被爆二世協議会の西本守さん、県高教組原爆被爆二世教職員の会の岸本伸三さん、長崎から県原爆被爆者二世教職員の会会長の平野伸人さん、小学校教諭山口涼子さん。一行はソウル市で大阪からの5人と合流し、慰霊祭などに参列
1987/8/5
広島県安芸郡坂町小屋浦の原爆犠牲者埋葬地に、42年ぶりに地域住民らが原爆慰霊碑を建立し、除幕式。埋葬を確認した87人の犠牲者の名前刻む
1987/8/5
広島市の女声合唱団「コール・セシリア」が、ノーモア・ヒロシマコンサートで原爆小頭症の娘に寄せる母親の思いをつづった合唱組曲「百合子のうた」を披露
1987/8/5
広島名画座が反核映画のオールナイト上映会。「ひろしま」(日、1953年)、「死者からの手紙」(ソ、86年)、「ザ・デイ・アフター」(米、83年)、「風が吹くとき」(英、86年)
1987/8/5
「ザ・リボン」の代表世話人北畠真理さんら20人が原爆慰霊碑前で全国から寄せられたリボンを結び、核兵器廃絶をアピール
1987/8/5
広島市の縮景園で発掘された被爆者の遺骨64体の慰霊祭。発掘のきっかけをつくった元朝日新聞カメラマン松本栄一さんも参列。遺骨は6日、原爆供養塔に納骨
1987/8/5
ワシントン・ホワイトハウス前のラファイエット公園で、米の反核団体「ヒロシマ・ナガサキ平和委員会」が主催し、核兵器廃絶を求める祈りの集会。広島市の郭福順さん、広島県高田郡向原町の向原カトリック教会神父長谷川儀さんの2人が参加。戦勝記念塔前で「ピース・フライト87」の「日本凧の会」広島支部長津田欣二さんが「平和の凧」70枚の連凧を揚げる
1987/8/5
劇作家村井志摩子さんの反核一人芝居第3部「広島の女」を英語劇にした「AShowerofLeaflets」(ビラはふる)が広島市で上演
1987/8/5
日本被団協が広島市で200人が参加し「被爆者・遺族集会」
1987/8/5
比叡山宗教サミットに出席した12カ国の宗教指導者38人が原爆慰霊碑に参拝し、原爆資料館を見学
1987/8/5
広島市などが主催する87ジャーナリスト国際平和シンポジウムに出席するプラウダのビクトル・アファナシェフ編集長、ニューヨーク・タイムズのセイモア・トッピング紙面改善担当重役、タイムズのコラムニスト、ディグビー・アンダーソン氏、人民日報の席林生・国際部副主任、ルモンドのジャン・マリー・デュポン対外担当副社長らが原爆資料館を見学。被爆者の山岡ミチコさん、高橋昭博さんの体験聞く
1987/8/5
広島市の高木尊之さんが被爆死した妻敏子さんの形見の衣類5点を原爆資料館へ寄贈。高木さんは当時、広島地方裁判所検事局の検事
1987/8/5
広島市で平和コンサート「HIROSHIMA87~97」。安全地帯、南こうせつ、尾崎豊さんらが参加。6日も
1987/8/5
市民グループ「平和を語る青年のつどい」(熊中豊代表)が広島駅で「HIBAKUSYA」写真展。「ヒロシマ、ナガサキの前にもヒバクシャはいた。後にもヒバクシャはいる」がテーマ
1987/8/6
広島被爆42周年。広島市が平和記念公園で午前8時から原爆死没者慰霊式・平和祈念式。5万5,000人が参列。荒木広島市長と遺族代表が1年間に判明した新たな死者4,619人の名前を記入した死没者名簿を奉納、来賓の中曽根首相、ジャーナリスト国際平和シンポジウム参加者5人、姉妹都市ボルゴグラード市の市民代表らが献花。被爆二世の2人が「平和の鐘」をつき荒木市長が平和宣言。中曽根首相の参列は1983、85年に続き3回目
1987/8/6
広島市在住の外国人らでつくる「ヒロシマ・デー国際電話プロジェクト」(スティーブ・リーパー代表)が、式典の様子を電話を使い14カ国語で世界各国のラジオ局などに中継
1987/8/6
東大寺、薬師寺など奈良県内の300近い寺院で午前8寺15分に「平和の鐘」。非核平和都市宣言した奈良市の呼びかけで1986年から
1987/8/6
広島市などが主催し広島厚生年金会館で「87ジャーナリスト国際平和シンポジウム」。核保有国の米、ソ、英、仏、中の5カ国のジャーナリストに加え朝日新聞の白井健策論説委員、中国新聞の大牟田稔論説主幹、NHKの磯村尚徳特別主幹が参加
1987/8/6
原水爆禁止1987年世界大会広島実行委員会、新日本体育連盟全国連盟などが主催し、広島城ランニングコースで「核兵器廃絶第1回8・6ヒロシマ平和マラソン大会」。87人が参加
1987/8/6
原爆ドーム周辺で若者ら700人がダイイン
1987/8/6
広島市で流派を超えて「反核、平和のための能と狂言の会」。能の観世栄夫、狂言の野村万作さんら6人でつくる申楽乃座が出演
1987/8/6
旧広島市庁舎の被爆石が8月6日までに国内外の48カ所に送られる。申し込み第1号は北海道深川市。平和公園、平和記念碑、平和の塔、平和の石…。海外第1号はソ連のボルゴグラード市
1987/8/6
荒木広島市長が平和宣言「…ヒロシマは重ねて訴える。核保有国は直ちに核実験を全面的に停止することを。米ソ両国は、首脳会談を開催し、全面的核軍縮条約を早急に締結することを。世界の指導者は、被爆地広島を訪れ、直接、被爆の実態を確認することを。日本政府は、唯一の被爆国として非核三原則を堅持し、憲法の平和理念に基づき、より積極的な平和外交を展開し、核兵器廃絶へ向けて先導的役割を果たすべきである…」
1987/8/6
中曽根首相が広島市で記者会見。黒い雨地域の見直しに向け再調査を示唆。この後、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」を慰問。「被爆者代表から要望を聞く会」では韓国人徴用工の遺骨送還について「常識からすれば当然のこと。送付できるよう検討させたい」
1987/8/6
韓国原爆被害者協会が主催しソウルで被爆者ら400人が参加して「第20回韓国人原爆犠牲者追悼式」。日韓両政府に、原爆病院建設、被爆者実態調査、渡日治療再開など求める決議。梁井新一大使が駐韓大使として初めて追悼の辞を寄せ「過去の日韓間の不幸な関係に起因する問題の改善なくしては正しい日韓関係は存在できない」と言明
1987/8/6
広島、長崎の被爆状況を撮影したカメラマンたちの証言集「原爆を撮った男たち」が出版。写真家の反核グループ「反核写真運動」(林重男運営委員長、550人)が編集し、24人(9人は遺族)のカメラマンが証言
1987/8/6
京都市で主婦ら800人が「1,000人で平和を歌うつどい」開く。作曲家林光さんの新作「生命の木、空へ」を合唱
1987/8/6
広島市で原爆犠牲者への鎮魂と平和への祈りをささげる「平和コンサートの夕べ」開催。団伊玖磨氏の交響曲第6番「HIROSHIMA」など4曲
1987/8/6
広島県高校生平和ゼミナールが広島市で初の手作り反核・反戦コンサート「ノー・ニュークス・コンサート」開く
1987/8/6
創価学会婦人平和委員会が反戦出版ジュニアシリーズ第3冊「ヒロシマ・平和への出発」を発刊
1987/8/6
広島市の原爆ドーム東側の西蓮寺境内で被爆した子育て地蔵の顔が東京・目黒区の常円寺に。1947年、広島児童文化会館の上棟式に出席した村山有ボーイスカウト東京都連理事長が会館建設で知り合った香月崇海西蓮寺住職に贈られた後、常円寺に
1987/8/6
比叡山宗教サミットに参加した海外14カ国19人を含む世界の宗教者150人が広島市で交流
1987/8/6
米のビキニ水爆実験による放射能の影響は、これまで報告されていたビキニ環礁近くのビキニ、ロンゲラップ2島住民に限らず、マーシャル諸島全域に及ぶ。ワシントン大のトマス・ハミルトン博士らの研究
1987/8/6
広島市のワールド・フレンドシップ・センターで「語り部の集い」。山岡ミチコさんら3人が米からの旅行者24人と市内の小学生らに体験語る
1987/8/6
佐々木禎子さんの話に感動し広島市を訪問中の米南カロライナ州コロンビア市立ハンド中の生徒24人が広島市立二葉中を訪ね平和交流
1987/8/6
広島市で草の根平和グループが集まり、反核・平和について討議する「87年広島・平和へのつどい」開く。呼びかけ人は北西允広島修道大教授、木原省治「原発はごめんだヒロシマ市民の会」代表、山田順二「平和のための広島通訳者グループ」世話人、森田宗一元東京家裁判事
1987/8/6
新藤兼人監督が原爆で全滅した移動演劇隊「桜隊」の長編記録映画「さくら隊散る」の撮影開始。原作は元新劇女優の江津萩枝さん著「桜隊全滅-ある劇団の原爆殉難記」
1987/8/7
長崎市で被爆者や国内外の反核・反原発グループによるアジア・太平洋核被害者大会が、海外代表30人を含め150人が参加し開催。9月にニューヨークで開く第1回核被害者世界大会を前にアジア・太平洋地域の実態を明らかにするため開催
1987/8/8
「ピース・フライト87」に参加した広島市の津田欣二さんが米メリーランド州アナポリスで連凧揚げに挑戦、チェサピーク湾上に「平和」と書いた凧を先頭に2,003枚の連凧を揚げる
1987/8/9
米コロラド州ロッキーフラッツ核兵器工場に反核デモ。150人以上が逮捕
1987/8/9
長崎市被爆42周年。松山町の平和公園で約2万4,000人が出席し原爆犠牲者慰霊・平和祈念式典。本島等市長と遺族代表2人が過去1年間に死亡が確認された2,359人の名簿を奉安、斎藤十朗厚相らが献花
1987/8/9
本島等長崎市長が平和宣言「…平和は武装して守るものではなく、世界の人々が手をつないでつくり上げるものです。…日本はこれまで軍事費を少なくして現在の繁栄にいたりました。これは人類の新しい実験として世界に示されたものです。今こそ『世界は一つ』という理念を確立する時です。日本人は世界の飢餓や失業などを自らのものとして解決しなければなりません…」
1987/8/9
日・台・韓YMCAユース・キャンプの一行35人が平和記念公園を訪れ、原爆資料館を見学、慰霊碑に参拝。台湾の大学生は「原爆の被害は悲惨だが、結果だけでなく原因を考えることがもっと大切。ただ、今の人は昔のことは切り離して日本と仲よくしようとしている」
1987/8/10
広島市の原爆資料館が1955年8月の開館以来の歴史を綴った「30年の歩み」を発行
1987/8/11
ソ連外務省のカルポフ軍備制限・軍縮問題局長が記者会見で「ソ連は既に鉄道上を移動しながら発射できる世界初の戦略核ミサイルを配備済み」と語る
1987/8/11
広島市のおばあちゃんコーラスグループ「トワ・エ・モア」が、原爆慰霊碑前で米カリフォルニア州ストックトン市のリンカーン高校合唱団と慰霊コーラス。1985年、ストックトン市を訪れたのがきっかけ
1987/8/12
荒木広島市長がソ連核実験に抗議電報
1987/8/12
ソ連がヤク-ト自治共和国で地下核実験。タス通信が伝える
1987/8/13
米国務省が「ソ連が8月7日にノバヤゼムリャ島で行った核実験で、放射能チリが国境を越えスウェーデンで検出。1963年の部分核停条約に違反」と非難
1987/8/13
古在由秀東京天文台長ら日本の著名な天文学者510人が米戦略防衛構想(SDI)に反対声明
1987/8/13
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1987/8/14
被爆者らが12日のソ連、13日の米核実験に抗議し原爆慰霊碑前で座り込み
1987/8/14
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1987/8/15
全国戦没者追悼式で、広島陸軍病院軍医少尉だった夫を原爆で失った松江市の北川美喜子さんが、遺族を代表し追悼の言葉
1987/8/17
「広島、長崎の放射線量の新計算方式DS86で再計算すると被爆者のがん死亡率は7、8割増加」。放射線影響研究所が発表
1987/8/17
広島の被爆者や平和活動家らを描いた肖像画展を欧州各地で開いているスイス人ゴーチェ・レフラーさんと西ドイツの女性画家イルカ・ドーンさんが、東京で展示会。9月5日から広島市で「ヒロシマの影」展示会
1987/8/18
日本YWCA主催の「ひろしまを考える旅」が3日間の日程で始まる。全国から参加の中、高校生ら100人が原爆資料館を見学し、平和記念公園の碑巡り
1987/8/19
中国・西安市の西北大青年友好訪日代表団4人が、原爆資料館を見学、広島平和文化センターの小松清興主事の被爆体験聞く
1987/8/23
広島市の縮景園で松本栄一さんの作品を中心に慰霊写真展
1987/8/23
米ニューヨーク州のショトークアで第3回米ソ民間人公開討論会。ソ連からペトロフスキー外務次官、元宇宙飛行士のテレシコワさんら240人が参加、米側はブラッドリー上院議員、クオモ・ニューヨーク知事ら50人のほか、地域住民5,000人
1987/8/26
広島市で開いた第2回国際アニメーションフェスティバルのグランプリに、カナダのアニメ作家フレデリック・バックさんの「木を植えた男」が選ばれる
1987/8/26
英プリマスの造船所に入港中の英原潜コンカラーで火災
1987/8/28
米連邦請求裁判所がマーシャル諸島住民の核実験被害賠償請求を却下。「米はすでに被害者に対し1億5,000万ドルを賠償済み。同諸島は1986年、自治権を獲得し米の裁判権が及ばない」が理由
1987/8/29
長崎県被爆者手帳友の会と原水禁長崎県民会議が、「米軍が市民に退去を求めるビラをまいたのはいつか」で公開討論。「ビラがまかれたのは、原爆投下後だった」でほぼ一致(「長崎年表」)
1987/8/31
米テネシー州の環境保護団体が国防総省を相手取り「十分な安全対策がとられない限り、ミサイルの生産、配備禁止を求める」とワシントン連邦地裁に提訴
1987/8/31
訪米中のソ連軍参謀本部のニコライ・チェルボフ軍縮・安全保障部長が核実験検証方法で「米のコーテックス法」受け入れを表明
1987/8/--
1986年に公開された反核アニメ映画「100ばんめのサル」が絵本に。原作は米作家ケン・キース・ジュニア。映画は女優吉永小百合さん、作家C・W・ニコルさんが日本語版と英語版のナレーションを担当
1987/8/--
広島市の小学校教諭宗田勝さんが、被爆死した父親の被爆体験を「熱い風」と題し40枚の絵と10ページの証言記録にまとめる
1987/8/--
広島市文化課の松林俊一氏が中国新聞に「原爆ドームの姉妹たち」と題し、ドームを設計したチェコスロバキア人のヤン・レツル氏と作品について寄稿。レツル氏(1880~1925年)は1906年来日、約10年の滞日中に共同作品を含め、旧宮島ホテル、上智大学1号館、聖心女学院など11カ所の建築を手がける
1987/8/--
被爆死した両親から疎開先に届き、兄妹2人で戦後を生き抜く支えとなった父母の手紙を埼玉県新座市の兄、八尾洋二さんと鳥取市の妹、鈴木咲子さんが「撫子」と題し出版
1987/8/--
原爆で両親と姉妹の4人を失った広島市の小笠邦久さんが「ヒロシマという名の街で」を自費出版
1987/8/--
広島逓信病院で被爆ヒマラヤ杉3本が健在
1987/8/--
原爆被災翌日の1945年8月7日に広島の上空を飛行した広島県高田郡美土里町の佐々木(旧姓田丸)嘉平さんが被爆者健康手帳の交付申請を準備。戦闘機空輸専門の第1飛行隊に所属し、「隼キ-43」を福岡県の太刀洗飛行場へ運ぶ途中、広島市上空を高度700メートルで2回旋回。「動いているのは、たなびく煙だけで、人影も見えない大地にこの世の終わりを感じた」
1987/8/--
広島市の国際青少年友好センタ-が国際的な反核・平和運動の情報交換やネットワ-クづくりを目指しパソコン・ネットワ-ク「カモメ」をスタ-ト
1987/8/--
核兵器事故の発生に備え、米が日本も協議対象国の一つとしていることが米民間調査機関「ノーチラス」の調べで分かる。核兵器事故などを取り扱う「爆発物処理第1グループ分遣隊」も横須賀と佐世保に配備
1987/8/--
被爆前、広島市の大手町にあった無碍幼稚園の写真が岡山市在住の卒園生の家で見つかる

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