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ヒストリー

ヒロシマの記録1987 11月


1987/11/1
「青年の船」で広島市を訪れたソ連青年300人と、マレーシアの教員25人が原爆資料館を見学。被爆語り部の池田精子さんの話など聞く。マレーシア教員の中に南方特別留学生だった父が広島で被爆したズーキフリー・アブドル・ラザクさんも
1987/11/2
修学旅行で10年近く広島を訪れている佐賀県江北町の江北中学の母親らがヒロシマ学習。「子どもたちと一緒に平和を考えるために現地へ行こう」
1987/11/2
広島市の私立安田女子高の生徒らが文化祭で、英中央情報局の「PROTECTandSURVIVE」に掲載の簡易核シェルターをつくり、非常識さを実感
1987/11/4
日米新原子力協定に調印。19年ぶりの全面改定で期間は30年。13日、米上院が協定で定めたプルトニウム空輸をOKするに当たって実際に航空機を墜落させて安全性確認の実験が必要、との修正条項を可決
1987/11/4
広島市の原爆ドーム保存調査技術検討委員会が「20年前の保存工事は効果があり本体に重大な傷みはないが、鉄筋などの一部に補修の必要」と調査結果を発表
1987/11/5
仏がムルロア環礁で地下核実験。ニュージーランドの科学者らが発表
1987/11/5
デンマークのフレデリック皇太子が原爆慰霊碑に参拝、原爆資料館を見学
1987/11/6
荒木広島市長が5日の仏核実験に抗議電報。8日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1987/11/7
広島信貴山洗心会(日吉富美夫会長)が京仏師の松本明慶さんの作品「合掌童子像」を広島市に寄贈。広島被爆のイチョウの木に合掌する子供を彫刻
1987/11/9
日本被団協が1985年に実施した「原爆被害者調査」のうち原爆死没者の集計結果まとめる。回答者1万3,457人、うち死亡原因、時期、状況が特定できたのは1万2,726人。45年8月6日当日の死亡が22%、45年末まで45%
1987/11/9
日本被団協が核兵器廃絶と被爆者援護法の即時制定を求め東京で行動。13日まで。11日、3,500人が折りづるの束を手に人間の鎖。厚生省を取り囲む
1987/11/9
放射線影響研究所の理事で遺伝学者のウィリアム・シャール博士が、延べ8年間の広島での研究を終え帰国。1949年、ABCCスタッフとして来日
1987/11/10
日赤長崎原爆病院の迎秀明副院長ら2人が、被爆した、かつての大島つむぎ女子職工員らのいる鹿児島県奄美大島へ往診に出発(「長崎年表」)
1987/11/11
英国際戦略研究所が「ミリタリー・バランス1987-88年版」を発刊。「米ソの核戦力は総合的に比較すると均衡状態」と分析
1987/11/12
広島双葉ライオンズクラブ(躍場重義会長)が、広島市の元安川河岸緑地に中曽根元首相の句碑「悲しみの夏雲に向け鳩放つ」を据え付け
1987/11/13
国連総会第1委員会が部分的核実験停止条約を包括的核実験禁止条約に切り替える決議案を賛成101、反対3、棄権24で可決。反対は米、英、仏。ソ連は賛成。中国は採決に加わらず。日本は棄権
1987/11/14
広島市立国泰寺中学の1年生が原爆犠牲者の重みを実感しようと22万人分の顔写真集める
1987/11/14
広島の大学人らが呼びかけ広島市で「科学者による国際平和週間・広島集会」開く。80人が参加。発起人沖原豊広島大学長、今堀誠二広島女子大学長、河合護郎広島平和文化センター理事長ら14人
1987/11/15
ソ連が核実験
1987/11/16
荒木広島市長が15日のソ連核実験に抗議電報。17日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1987/11/16
国連総会第1委員会が1988年5月31日から6月25日まで、ニューヨークの国連本部で第3回軍縮特別総会開催を決定
1987/11/17
米民間団体「スペース・ウオッチ」が主催しワシントンの下院別館で戦略防衛構想(SDI)の是非をめぐり、公開討論会。推進派はパール前国防次官ら、批判派はコーネル大のカール・セーガン教授ら
1987/11/19
米上院が戦略防衛構想(SDI)の広範な実験禁止を定めた法案を可決
1987/11/19
アジア、アフリカからの農業研修生が学ぶアジア学院(栃木県西那須野町)の留学生32人が原爆資料館を見学
1987/11/20
核実験問題ジュネーブ交渉で米ソが1988年中に数回の共同核実験実施に合意。検証が目的
1987/11/20
荒木広島市長が20日の仏核実験に抗議電報。22日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1987/11/20
仏がムルロア環礁で地下核実験。ニュージーランド政府が発表
1987/11/23
ソ連レニングラード市のウラジーミル・ホドウィレフ市長が原爆資料館を見学
1987/11/23
米の平和団体「国際平和行進協会」(IPW)とソ連平和委員会代表が、1988年6~9月に米ソ両国民各200人が参加する合同平和行進を両国で実施と発表
1987/11/24
米ソ両外相が中距離核戦力(INF)全廃条約案で完全合意、12月8日からの首脳会談で調印へ。対象はソ連のSS20、4、12、23。米はパーシング2巡航ミサイル
1987/11/24
広島県原水禁の森滝市郎代表委員が、レーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長に核実験全面禁止と核兵器廃絶を要請する手紙を発送
1987/11/25
「世界平和アピール7人委員会」が、1984年に死去した大河内一男元東大学長らの空席補充に、東京女子大学長の隅谷三喜男氏、内山尚三法政大教授を決める
1987/11/26
中距離核戦力(INF)全廃条約によって米ソ双方の査察官が常駐、もしくは定期査察する両国のミサイル組立工場各2カ所の施設名が判明。AP通信、ニューヨーク・タイムズ紙などが報道
1987/11/26
長崎市原爆被災資料協議会(会長、岡島俊三長崎大医学部名誉教授)が「原爆予告ビラ」の投下時期問題で会合を開き「投下後にまかれた」と結論(「長崎年表」)
1987/11/26
鳥取県内でクラシックの演奏会を開いている「音の会」(永井伸和代表)が、9月の平和コンサート収益金45万円を広島原爆病院に寄付
1987/11/27
イタリア政府が8、9両日の国民投票結果に基づき、原子力発電所の建設を2カ月間、停止決める
1987/11/27
灘神戸生協が広島原爆病院に520万円を寄付。3年前から続く
1987/11/30
「新放射線量評価システムのDS86で計算した場合、被爆者の乳がんによる死亡率は従来調査の2.33倍」-。放射線影響研究所の清水由紀子研究員が東京で開かれた日本放射線影響学会で発表。12月2日「DS86で計算すると、被爆者の染色体異常発生率も従来値より5割高率」と発表
1987/11/30
仏がムルロア環礁で地下核実験。ニュージーランドのラロトンガ観測所が発表
1987/11/30
荒木広島市長が仏核実験に抗議電報
1987/11/30
韓国原爆被害者協会(辛泳洙会長)が日本政府に対し23億ドル(336億円)の被害補償を求める声明書をソウルの日本大使館に提出
1987/11/30
軍隊を持たない中米コスタリカのロドリゴ・カラソ元大統領と「アキバ・プロジェクト」の秋葉忠利広島修道大客員教授が平和・軍縮をテーマに電話対談。米のWTBS放送(アトランタ)が平和特集番組で放送へ
1987/11/--
故長田新広島大名誉教授の遺品、資料を遺族が広島大へ寄贈
1987/11/--
北海道新冠町の中学教諭前川雅美さんが新聞記事などを基に6年前から出し続けている「語り部」が1500号に
1987/11/--
カナダ・トロント市在住の節子サーローさんがカナダの雑誌に書いた被爆体験記「1945年8月6日、沈黙のせん光」がカナダの高校教科書に
1987/11/--
広島市が御幸橋の惨状を忘れまいと、同橋西詰めに松重美人さんの写真を碑に刻むとともに、被爆した御幸橋の親柱と一緒に保存へ
1987/11/--
1986年4月のソ連チェルノブイリ原発事故で放出された放射性物質は10~50キロ上空の成層圏まで達し、87年初めから徐々に降下。気象庁気象研究所が発表
1987/11/--
広島銀行総務部管理課長の田辺良平さんが「広島の金融復興記-ある銀行の8月6日以後」を出版
1987/11/--
広島市出身でオーストラリアに移住した児童文学作家森本順子さんが「MyHiroshima」を出版
1987/11/--
米戦略爆撃調査団の一員として広島入りし、廃虚の街や治療中の被爆者らを撮影した父ハーバート・スッサンさんの遺志を継ぎ、長女で弁護士のレスリー・スッサン・パーハムさんが、本を執筆のため広島取材

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