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ヒストリー

ヒロシマの記録1987 12月


1987/12/1
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1987/12/2
日本アイソトープ放射線総合会議に出席のため来日中の国際放射線防護委員会(ICRP)のダン・ベニンソン委員長が広島市で「職業被曝の基準は現在の年間5レムから1レムに厳しくすべき」と表明
1987/12/2
被爆者らが11月30日の仏核実験に抗議し、原爆慰霊碑前で座り込み
1987/12/2
荒木広島市長が米核実験に抗議電報
1987/12/2
米がネバダで2日連続の地下核実験。エネルギー省が発表
1987/12/3
広島市のニュー双葉美容室の広島原爆病院慰問が60回に。毎年8月6日と正月前に入院患者の美容奉仕。始めた沖従子さんは1982年に58歳で死去
1987/12/3
広島市の荒木市長が2日の米核実験に抗議電報。1987年に入り41回目。過去19年間で最多
1987/12/4
被爆者らが1日と2日の米核実験に抗議し、原爆慰霊碑前で座り込み
1987/12/5
「非核の政府を求める広島の会」が広島平和記念館でシンポジウム「いま核兵器廃絶のために何をなすべきか」を開く
1987/12/6
広島平和記念館で「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」と広島市と近郊に在住の外国人が、米先住民のウラン採鉱被曝問題などで国際討論集会
1987/12/7
核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の第9回世界大会が1989年10月7日から4日間の日程で広島市で開催が正式決定。IPPNW日本支部とイアン・マドックスIPPNW副会長らの間で合意
1987/12/8
レーガン米大統領とゴルバチョフソ連共産党書記長がホワイトハウスで「中短距離ミサイルの廃棄に関する条約(INF全廃条約)」に調印。両国が欧州およびアジアに配備する射程500~5,500キロの地上発射ミサイル2,611基(米859基、ソ連1,752基)を3年以内に廃棄する史上初の核廃棄条約
1987/12/9
政府の放射線審議会(熊取敏之会長)が放射線被曝の新基準を通産省、科学技術庁、厚生省、運輸省、労働省、人事院に諮問通り答申。年間被曝線量の上限が一般人は現行の年間0.5レムを五分の一の0.1レムに、作業者は3カ月3レムを年間5レムに変更。21年ぶり大改正
1987/12/9
広島市原爆ドーム保存調査技術検討委員会が、ドーム上部の鉄骨の枠組みなど補修項目を決める 1987/12/10
国の委託を受けた広島市の被爆二世健康診断が市内3カ所で始まる
1987/12/10
ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長とレーガン米大統領が、首脳会談で戦略核兵器半減に向け大きく前進。「大陸間弾道ミサイル(ICBM)と潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の弾頭数を4,900個まで削減」
1987/12/11
荒木広島市長がレーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長にヒロシマ訪問を求める書簡
1987/12/11
平和公園にある中国から贈られた平和モニュメント「乙女の像」に赤ペンキ(「長崎年表」)
1987/12/12
厚生省と日本被団協が1985年に実施した2つの被爆者調査を検討するシンポジウム「ヒロシマ・ナガサキから未来へ」が広島市で開催
1987/12/13
ソ連がセミパラチンスクで軍事目的の地下核実験。モスクワ放送が伝える
1987/12/13
荒木広島市長が13日のソ連核実験に抗議電報。15日、被爆者らが原爆慰霊碑前に座り込み
1987/12/14
厚生省の委託を受け、黒い雨や残留放射能が人体に与えた影響を調べる「原爆被爆者の線量推定に関する研究班」(班長、橋詰雅麻布獣医大教授)が発足
1987/12/14
ソ連が13日カザフ共和国セミパラチンスクで行った地下核実験に対し、長崎市が駐日ソ連大使に抗議文を送る。1970年以来抗議は通算400回目(「長崎年表」)
1987/12/17
「在外被爆者の帰国治療に役立てて」と作家の上坂冬子さんが、在米被爆者支援連帯ヒロシマ委員会(石田明代表)にサイン入り自著300冊を贈る
1987/12/17
原子科学者会報「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」が、毎号表紙に掲げている「運命の日の時計」の針を1988年1月号から16年ぶりに3分後退させ6分前に戻す
1987/12/17
ユーゴスラビアのタリク・アヤノビチ駐日大使夫妻が原爆資料館を見学
1987/12/19
広島市議会が「中短距離ミサイル廃棄条約の調印を歓迎し核兵器の廃絶を求める決議」を採択
1987/12/19
日本被団協が1986年の結成30周年記念事業として計画した「被爆者の森」用地が、広島市平和大通り東詰めに決まる
1987/12/20
荒木広島市長が20日のソ連核実験に抗議電報。22日、被爆者、労組員らが原爆慰霊碑前で座り込み。ヒロシマ取材中の米のレスリー・スッサン・パーハムさんも初めて参加
1987/12/20
ソ連がセミパラチンスクで地下核実験。タス通信が伝える
1987/12/24
静岡市の元兵士で広島市にあった旧電信第2連隊の草分貢さんが「被爆者のために」と34年間、軍人恩給の半額を広島市に送り続け総額が百数十万円に
1987/12/26
「沖縄とヒロシマを結ぶ市民の会」(北川哲世話人)の初の平和交流団「ピースフライト沖縄」が広島から出発
1987/12/27
ソ連がセミパラチンスクで「軍事技術完成のため」地下核実験。タス通信が伝える
1987/12/27
荒木広島市長が27日のソ連核実験に抗議電報。29日、被爆者らが原爆慰霊碑前で座り込み
1987/12/--
被爆当時、日本土木建築統制組合の中国地区担当専務理事だった亀山洋三さん(1975年11月、84歳で病死)が被爆2年後に書いた「広島市原子爆弾遭難の追憶記」が横浜市内の自宅で見つかる
1987/12/--
兵庫県芦屋市で平和運動に取り組む中学教諭の岡田竜一さんが広島、長崎に関する蔵書1,246冊の図書目録をつくり利用呼びかけ
1987/12/--
京都市のフリーカメラマンの山田梅雄さんが、広島を中心に平和問題に取り組む高校生の姿を追った写真集「みつめる瞳地域・平和・連帯」を発行
1987/12/--
1945年9月に設置された日本学術会議原爆災害調査研究特別委員会・医学科会のメンバーとして、爆心地から1.3キロ以内の6カ所の建物を対象に放射線量などを調べた元東京医科歯科大教授の村井竹雄さんが、自筆の原爆災害調査表52枚を広島大の和田卓郎教授に寄贈
1987/12/--
広島市佐伯区五日市町千同地区の住民が旧広島市庁舎の被爆石を譲り受け平和を祈る記念碑を建立

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