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ヒストリー

ヒロシマの記録1985 3月


1985/3/1
3・1ビキニデー。東京で多彩な反核行事。杉並区で若者らが交流集会。江東区の第五福竜丸展示館は平和行進が出発。渋谷区で「反核・日本の音楽家」の反核ジャズコンサート
1985/3/1
3・1ビキニデー広島集会が開会。広島県原水禁、同県原水協などの統一集会、約200人が参加。集会アピールは意見調整ができず採択見送り
1985/3/1
米反核団体「非核・独立の太平洋委員会」が独自調査で、海上発射巡航ミサイルのトマホークを積載した原子力潜水艦を特定し、15隻の艦名公表
1985/3/1
中国電気通信局の袋町電電ビル(広島市中区袋町)が落成式。敷地内に原爆慰霊碑除幕
1985/3/1
中国で6月に開かれる「世界平和擁護フォーラム」の招待状が日本原水協に届く。中国と原水協は1966年以来、断絶状態。4月12日、代表派遣を決定
1985/3/1
広島、長崎両市が国内の政令指定都市や非核宣言自治体に、世界平和連帯都市市長会議への参加を要請する案内状発送。4日、外国へも
1985/3/2
日本グラフィックデザイナー協会と広島国際文化財団の「ヒロシマ・アピールズ・ポスター」第3作が完成。制作者の福田繁雄東京芸術大助教授が広島市にポスターパネル贈る
1985/3/3
米連邦緊急管理庁が、核戦争発生時に都市住民を農村地帯に移転させる「危機疎開計画」を断念
1985/3/4
竹下虎之助広島県知事が県会本会議で、開館する県民文化センターに被爆資料の常設展示コーナー設置を表明
1985/3/4
レーガン米大統領が「軍縮交渉に不可欠」と次期戦略核ミサイルMXの生産継続を議会に要請
1985/3/4
千葉県松戸市が全国初の「世界平和都市宣言」。日本国憲法の基本理念にのっとり、平和の維持と非核三原則の順守、核兵器廃絶と世界恒久平和の達成誓う
1985/3/4
被爆者援護法制定の賛同署名を求める日本被団協の全国行脚広島コースが平和記念公園を出発。長崎、札幌からも出発。4月の東京中央行動に集合
1985/3/5
北九州市小倉北区の建設会社が、労働安全衛生法で必要な原子力発電所の労働者の健康診断書を偽造し、各地の原発に派遣-。福岡県警の調べで判明
1985/3/5
放影研の第12回専門評議員会が開会。7日、新たな研究項目として、がん発生年齢に達した胎内被爆者の追跡調査など勧告
1985/3/5
ニュージーランドのロンギ首相がジュネーブ軍縮会議に特別出席し、米英の核積載艦船の寄港拒否政策を演説。「バランスの取れた軍備管理追求は国の義務」
1985/3/5
広島の原爆を基にした創作反核バレエ「星ひとつまたたきて-ノーモア・ヒロシマズ」のソ連、東ドイツ公演を前に、ソ連国営テレビがヒロシマ・ダンサーズ主宰者の古月公子さんを取材。8日、出発へ
1985/3/7
訪米中のシチェルビツキー・ウクライナ共和国第一書記がレーガン大統領と会談。軍縮交渉推進で一致。米戦略防衛構想(SDI)は平行線
1985/3/7
「85年・平和のためのヒロシマ行動」実行委員会が、レーガン米大統領とチェルネンコ・ソ連書記長に核政策に関し公開質問状送付を決める
1985/3/8
厚生省の原爆被爆者実態調査委員会の専門委員会が初会合。栗原登広島大原医研教授ら12人
1985/3/8
増岡博之厚相が衆院予算委員会分科会で、原爆被爆者実態調査に合わせた原爆死没者調査について「手だてを尽くしたい」と意欲
1985/3/8
広島県安芸郡府中町の山田機平町長が、3月町会に再提案した非核自治体国際会議の出席費用(61万3,000円)の補正予算案を削除。「国際会議に出席するほど住民意識は盛り上がっていない」との議会の反発を懸念
1985/3/9
インド原子力委員会が「8月からマドラス近郊の高速増殖実験炉で、世界初のウラン・プルトニウム混合炭化物を核燃料に使用」と言明
1985/3/10
平和記念公園の峠三吉碑前で3回目の「三吉忌・碑前祭」。約100人が参列。33回忌のこの年から名称を「三吉忌」に
1985/3/10
チェルネンコ・ソ連共産党書記長が死去。13カ月の短命政権。11日、新書記長にゴルバチョフ政治局員兼書記を選出。就任演説で「緊張緩和支持」を表明し、米に核兵器凍結と新型ミサイル開発中止を提案
1985/3/10
ベルギー国営ラジオテレビ局のスタッフ3人が被爆40周年の広島取材を開始。被爆者や反核運動などを紹介するテレビ番組制作
1985/3/10
米が1984年中に少なくとも2回の秘密核実験を実施したことが判明。スウェーデン国防研究所が探知した1年間の実験回数と米政府発表の回数比較で解明
1985/3/12
米ソ包括軍縮交渉がジュネーブで始まる。戦略核、中距離核、宇宙兵器の3分野で協議へ。1983年12月に戦略兵器削減交渉(START)が無期限中断して以来、15カ月ぶりに核軍縮交渉の場が復活
1985/3/12
画家の丸木位里、俊夫妻が、核戦争による人類絶滅をテーマに描いた新作「地獄」を、東京都美術館の第11回从(ひとひと)展に出品
1985/3/13
原水爆実験で汚染されたビキニ環礁の放射能除去の費用支出に米政府が同意。ハワイ連邦地裁での裁判で合意。1946~58年まで23回の実験で汚染された表土除去、植物植え替え費用など。2年以内に作業開始、10年以内に島民帰還の見通しも
1985/3/13
広島市の平和記念公園で、改築される原爆慰霊碑の御影石組み立て作業が始まる
1985/3/14
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世から被爆医師の秋月辰一郎聖フランシスコ病院医長に「聖シルベストロ教皇騎士団長勲章」
1985/3/14
広島市が平和記念公園の市公会堂跡地に建設する「広島国際平和文化会館」の基本設計が決まり、建築家の丹下健三氏が市側に説明。国際会議場や大ホール。1985年度着工予定
1985/3/14
米パサデナ市で開かれた「原爆放射線量再評価の日米合同ワークショップ」が討議終了。(1)広島投下の原爆の出力は約15キロトン(従来は12~20キロトンと推定)(2)空中放射の中性子線量は従来の推定より低い-などを確認。1983年に討議開始、3回目の今回で全体会議を終了。86年中にも最終報告へ
1985/3/15
ベルギー政府が米巡航ミサイル48基の国内への配備開始を決定。3月中に第1陣16基配備
1985/3/15
米エネルギー省が「ネバダで地下核実験を実施」と発表
1985/3/15
ゴルバチョフ・ソ連書記長が、訪ソ中の日本共産党の不破哲三委員長らに「日本の被爆者を招き体験者の声を広げたい」と申し入れ
1985/3/15
日本グラフィックデザイナー協会が、核戦争から地球を救うための反核ポスター27点を米反核グループに発送。6月の核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ブダペスト会場に展示し、世界各地で巡回展
1985/3/16
ソ連が新型大陸間弾道ミサイル(ICBM)SSX25の配備を開始-。米紙ワシントン・ポスト(16日付)が報じる
1985/3/16
YMCA国際平和研究所主催のシンポジウム「国際平和年とヒロシマの役割」が広島市の平和記念館で開かれ、約80人が参加。17日も
1985/3/16
荒木広島市長が米核実験に抗議電報。18日、原爆慰霊碑前など広島県内28カ所で座り込み
1985/3/17
在韓被爆者医療調査団(団長、鎌田定夫長崎の証言の会副会長、10人)が福岡を出発。10年ぶり、2度目(「長崎年表」)
1985/3/18
ウルフォウィッツ米国務次官補が下院外交委員会の公聴会で、ニュージーランドの核積載米艦船の寄港拒否で証言。「米艦船の核積載の有無は、内密でも通告できない」と米核政策を改めて強調
1985/3/18
長崎市が「長崎の鐘」などの歌手藤山愛一郎さんに感謝状と記念品(「長崎年表」)
1985/3/19
米国防総省が「ソ連の大陸間弾道ミサイルSSX24、25は、第2次戦略兵器制限条約(SALT2)調印後に開発された新型」と指摘し、条約違反と非難
1985/3/19
米上院が次期戦略ミサイルMX21基の追加生産費15億ドルの凍結解除を可決。26日、下院も
1985/3/19
「反核・写真運動」(代表委員、秋山庄太郎氏ら)が東京で開いた写真家の反核集会座談会に、広島、長崎で原爆写真を撮ったカメラマン5人が出席し、当時の惨状を語る。中国新聞元写真部員の松重美人さんら
1985/3/19
婦人国際平和自由連盟広島支部(迫千代子代表)が広島市議会に非核宣言を求める請願書を提出。市議会への同趣旨請願は3件目
1985/3/20
米で「サダコと千羽鶴」を発刊した児童文学者エレノア・コア女史(カリフォルニア州在住)が6年半ぶり広島訪問。佐々木禎子さんの母校、市立幟町小学校の卒業式に出席。25日、広島YMCAで講演 1985/3/21
「非核宣言運動のつどい」が広島市内で開会。東京都の中野区長ら約300人が参加。宣言自治体の拡大や住民・行政が一体化した非核自治体運動を確認
1985/3/21
「85年・平和のためのヒロシマ行動」で、水俣病告発の一人芝居を続ける演劇家砂田明さんが、詩劇「鎮魂歌-ひびき合え平和の声」を上演。広島のママさんコーラスや教師らが協力
1985/3/21
反核集会「85年・平和のためのヒロシマ行動」が広島市の平和記念公園を主会場に開かれ、約5万3,000人が参加。立川昭二郎広島修道大学長が「『核の冬』より『平和の春』を」と一人ひとりの「非核人間宣言」を呼び掛け。核廃絶と被爆者援護法の制定運動の強化などを盛り込んだヒロシマ・アピールを採択。運動の対立で日本原水協は不参加
1985/3/22
ゴルバチョフ・ソ連書記長が、米中距離ミサイル西欧配備とソ連の対抗措置の同時凍結を呼び掛け
1985/3/22
第五福竜丸の元乗組員でクリーニング店経営大石又七さん(東京・大田区)が作った同船模型が広島平和記念館に届く
1985/3/23
米エネルギー省が「ネバダで23日、地下核実験を実施」と発表
1985/3/24
荒木広島市長が23日の米核実験に抗議電報。26日、新しい原爆慰霊碑前など広島県内の28カ所で抗議の座り込み、詩人栗原貞子さんが自作の詩「ヒロシマを見た」を朗読
1985/3/26
広島市の平和記念公園で新装なった原爆慰霊碑の除幕式。1952年建立から33年、老朽化し約1億500万円で修復。コンクリートから御影石に
1985/3/26
日韓政府合意に基づく渡日治療の在韓被爆者10人が広島入り。中区役所で被爆者健康手帳を申請。27日、広島原爆病院に入院。6人が長崎入り
1985/3/26
広島地区労の「非核宣言運動をすすめる会」が発足。広島市に非核宣言を求める署名運動へ
1985/3/26
広島県原水禁が若者向けの反核運動学習資料「原水爆禁止運動の歩み」を発行。1954年9月の「原水爆禁止広島協議会」発足以後の30年史をまとめる
1985/3/26
元長崎放送記者の伊藤明彦さんが、被爆者の体験をテープに収めた「声の被爆体験集」を東京、札幌、金沢の図書館など4カ所に寄贈。寄贈施設は計13カ所に。全国の被爆者を訪ね歩いた14年間の活動に一区切り
1985/3/26
「核の冬セミナー」(全米科学アカデミーなど主催)が米ワシントンで開会。国立ロスアラモス研究所が電算機で精密な核戦争想定モデルを作成、核戦争後の「核の冬」現象の発生を認める報告を発表。「限定核戦争でも2日後に『核の冬』現象が起き、1シーズンの農作物生産が不可能」と指摘
1985/3/26
デンマーク国会が、野党提出の米戦略防衛構想(SDI)研究参加に反対する決議案を可決
1985/3/27
山梨市議会が「非核平和都市宣言決議」を採択。これで山梨県内の7市すべてが宣言採択
1985/3/27
東京電力の柏崎・刈羽原子力発電所3、4号機(新潟県柏崎市、同県刈羽村)の着工が電源開発調整審議会で正式決定
1985/3/27
NATO核計画グループの国防相会議が米戦略防衛構想(SDI)研究推進を全会一致で支持
1985/3/27
米戦略防衛構想(SDI)への西側各国の参加と技術協力を呼び掛けるワインバーガー米国防長官からの書簡が外務省に届く
1985/3/28
広島平和文化センターの平和関係施設調査研究委員会が、広島市に国立平和研究所を設置する基本構想をまとめ、センター理事会に報告
1985/3/28
広島県安芸郡府中町の山田機平町長がスペイン・コルドバ市での第2回非核自治体国際会議(31日まで)に出席。4月8日帰国、広島市役所で「被爆国自治体の核廃絶の訴えが共鳴を得た」と成果語る
1985/3/29
総評被爆者協議会連絡会議(総評被爆連)が、6月に中国へ被爆者代表団派遣を決める。森滝市郎原水禁国民会議代表委員を団長に15人。被爆体験を語る集会や原爆写真展を計画
1985/3/29
ジュネーブ軍縮会議が臨時本会議で、宇宙軍事化の防止で小委員会設置に合意
1985/3/30
出版労連が初めて企画したヒロシマ学習で東京の親子46人が広島を訪問。原爆資料館、慰霊碑巡り
1985/3/30
画家の吉野誠さんが広島市内で「ヒロシマを彫る木版画展」。4月1日まで
1985/3/--
広島平和文化センターが、高齢化する被爆者100人のビデオ証言集づくりに着手へ。被爆体験と戦後を映像と肉声でつづる。1986年度から2年かけ収録の予定
1985/3/--
大竹市原爆被爆者協議会が被爆40周年記念事業として、市民会館前の原爆犠牲者慰霊碑「叫魂」横に新しい記念碑を建立。「永遠の平和を祈って」と刻む
1985/3/--
広島市が、原爆資料館に保管する全被爆資料約6,500点のカラー写真付き所蔵台帳を作成へ
1985/3/--
広島大原医研の大北威教授が、定年を待たず3月末で退官へ。国立名古屋病院副院長に就任
1985/3/--
原爆詩人栗原貞子さんの詩に、画家の吉野誠さんが版画を添えた中高校生向け反核詩画集「ヒロシマ」が出版
1985/3/--
「反核・写真運動」(代表委員、秋山庄太郎氏ら)が被爆40周年の記念事業で原爆写真パネル(1組57点)を制作。貸し出し活用を呼び掛け

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