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ヒストリー

ヒロシマの記録1985 10月


1985/10/1
「女性による反核・軍縮・非核地帯設置のための国際フォーラム」が東京で開会。社会党が結党40周年で初開催。2日、世界の女性に平和連帯を呼び掛ける「東京アピール」を採択、閉会
1985/10/1
仏国営テレビTF1がゴルバチョフ・ソ連書記長との特別会見番組を放映。西側テレビで初。書記長は米戦略防衛構想(SDI)を非難
1985/10/1
米ウィスコンシン州ラシン市のファイン・アート・スクール全校児童375人が折った千羽づるが「原爆の子の像」に届く
1985/10/2
ゴルバチョフ・ソ連書記長が訪仏。首脳会談は米戦略防衛構想(SDI)反対で一致。3日、米に提案したソ連の新軍縮提案骨子を公表。「宇宙兵器の全面禁止と核戦略の50%相互削減」。4日、米国務省は「均衡を欠く」と公式論評
1985/10/3
核ミサイル積載可能な米原子力潜水艦バーミンガムが横須賀港に入港。同港寄港は1985年中24回目、過去最多
1985/10/3
「アジアの平和」日ソ専門家会議で来日中のソ連科学アカデミー・アフリカ研究所長のアナトリー・グロムイコ氏ら10人が原爆資料館を見学、原爆慰霊碑参拝
1985/10/3
ワインバーガー米国防長官が、戦略防衛構想(SDI)の要となるレーザー開発で、飛行ロケットへの照射実験に初めて成功と発表
1985/10/3
米スリーマイル島原子力発電所1号機が6年半ぶりに運転再開
1985/10/3
国連軍縮フェローシップ計画の若手外交官23人が広島を訪問。4日、原爆資料館を見学、被爆者の体験談聞く。5日、広島原爆病院へ
1985/10/3
厚生省が全国一斉に被爆者実態調査を実施。全国約36万7,000人の全被爆者を対象。初の死没者調査と1965年、75年に続く生存被爆者調査の2本立て。16日までに回収、86年中に同省が集計
1985/10/4
世界青年サミット(日本青年会議所主催)が広島市で開会。16カ国32人が参加。5日、核を含む全兵器の廃棄を目指す「サミット宣言」を採択し閉会
1985/10/4
仏訪問中のゴルバチョフ・ソ連書記長が記者会見で言明。「ソ連は欧州から撤去のSS20ミサイルをアジア地域に再配備しない」
1985/10/4
「平和コンサート2001」(広島青年会議所主催)が広島市内で開かれ、団伊玖磨氏が自作の交響曲第6番「HIROSHIMA」を初演
1985/10/5
山口県熊毛郡上関町の片山秀行町長が「町議会の中国電力上関原子力発電所誘致決議に敬意を表し、誘致を申し入れる」と表明
1985/10/6
マレーシア政府のルック・イースト技術委員会の一行が広島を訪問、原爆慰霊碑に参拝。被爆死した旧広島文理科大の南方特別留学生ニック・ユソフさんの墓(広島市佐伯区五日市2丁目、光禅寺)に参る
1985/10/6
日本青年会議所の全国会員大会が広島市で開会。「国際平和実現に努力」など決議
1985/10/6
戦略防衛構想(SDI)の日本調査団に対し、米側が早期研究参加を促していたことを政府が明かす。民間企業の技術力を評価
1985/10/7
三次市議会が議員提出の「平和非核都市三次宣言」を採択
1985/10/7
被爆した広島市役所の旧本庁舎の解体始まる。まず玄関前広場の敷石撤去
1985/10/7
米誌ニューズ・ウィーク(7日発売)で、インドのガンジー首相が「パキスタンが核爆弾を作っている確かな証拠がある。核爆弾はわが国を狙っている」と言明
1985/10/7
在米被爆者のトキコ・スタッキーさん(米ユタ州ユタ市)が広島原爆病院に入院。在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会の招き。12月6日、帰国
1985/10/7
原爆資料館が、保存被爆資料約5,300点の写真付き台帳の作成開始。体系的に整理分類へ
1985/10/8
1949、50年ごろの広島の町並みを撮影したカラー写真6枚が、元オーストラリア兵ビル・シェリフさんから広島市の「ヒロシマ・デー・国際電話プロジェクト」に届く。戦後、呉市駐留中に復興の姿を撮影
1985/10/8
原子力委員会が放射性廃棄物処理を手掛ける「廃棄物事業者制」の新設を決定。日本原燃産業(電力各社出資)の設立に合わせ、専門業者による一括処理を追認
1985/10/9
米エネルギー省が「ネバダで2回、地下核実験を実施」と発表
1985/10/9
灘神戸生協が広島原爆病院に組合員カンパで集めた1,000万円を寄付
1985/10/10
関西吟詩文化協会広島連合が広島市で30周年記念大会。核の悲惨さを訴える構成吟「祈り」を披露
1985/10/10
荒木広島市長が米核実験に抗議電報。12日、原爆慰霊碑前など広島県内28カ所で被爆者が抗議の座り込み
1985/10/11
1985年度ノーベル平和賞に「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」の受賞決まる。反核団体では初。12月10日授与式
1985/10/11
中国電力が萩市議会原子力発電所特別委員会で萩原発の建設構想を明らかにする。「110万~130万キロワット級2基を計画」
1985/10/14
米平和運動家で作家のダン・ウィルコックスさん夫妻が広島市のワールド・フレンドシップ・センターを訪問。米国防総省を取り巻いた「ピース・リボン運動」を集大成した本を寄贈
1985/10/15
北大西洋評議会(NACC)総会が、米戦略防衛構想(SDI)を弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約の枠内で推進することを米に要請する決議採択。SDI推進で欧米間のズレが表面化
1985/10/15
日本医師会の代議員会で、広島県医師会が「核戦争防止国際医師会議(IPPNW)」世界総会(1988年)の広島開催に支援を要請。日医も協力を決定
1985/10/15
広島市安芸区矢野西5丁目、長慶寺仏教婦人会が旧安芸郡矢野町内の原爆死没者名簿を市に提供。1945年8月6日から54年までの町内死亡者222人を記載
1985/10/16
中国が南太平洋諸国の調印した「南太平洋非核地帯条約」支持を表明
1985/10/16
米エネルギー省が「ネバダで地下核実験を実施」と発表
1985/10/17
広島原爆のガンマ線被曝線量は、爆心地から1キロ以遠では暫定被曝線量(T65D)の2.5倍-。奈良教育大の市川米太教授が日本放射線影響学会で発表
1985/10/17
日本原水協が、1986年の「国際平和年」に合わせ国連が核戦争阻止、核兵器全面禁止を中心課題に取り組むよう求める書簡をデクエヤル事務総長に送付
1985/10/17
原子力委員会の放射性廃棄物安全規制委員会が、低レベル放射性廃棄物の安全規制に関する基本的考えをまとめ報告。陸地処分の場合、人間の目が届く「管理型処分」を打ち出す
1985/10/17
核ミサイル積載可能な米原子力潜水艦ヒューストンが横須賀港に入港。神奈川県と横須賀市が外務省に核の有無の確認を要求。同省は「米政府から事前協議がない以上、核の持ち込みはないと信じる」
1985/10/17
原水禁国民会議が広島での検診に招待していた中国人被爆者、山東工業大副教授董永増さん(済南市)が心臓病で死亡。旧広島高等師範学校(現広島大)に留学中に被爆
1985/10/17
荒木広島市長が米核実験に抗議電報。19日、原爆慰霊碑前など広島県内28カ所で被爆者らが抗議の座り込み
1985/10/18
タイル壁画「平和のキャラバン-月」づくりの募金が広島市内で始まる。市民が購入するタイル片で壁画を制作。科学万博会場から広島市に贈られた「平和のキャラバン-太陽」とセット
1985/10/18
インド初の高速増殖実験炉が臨界に
1985/10/19
創価学会の世界青年平和文化祭が広島市で開催。20日も
1985/10/19
アフロメーエフ・ソ連参謀総長が共産党機関紙プラウダで「米が戦略防衛構想(SDI)を強行推進すれば、ソ連も宇宙防衛兵器を開発」と警告
1985/10/19
日本被団協が英、仏に派遣する語り部代表団が出発。英7人、仏5人。28日に帰国
1985/10/21
訪米中の中曽根首相がデクエヤル国連事務総長を訪問。「核兵器廃絶が11月の米ソ首脳会談で前進するよう支援したい」と会談進展に期待表明
1985/10/21
画家はらみちをさんが原爆犠牲者への鎮魂詩2編を、横笛奏者鯉沼広之さんの篠笛に乗せて原爆慰霊碑前で朗読
1985/10/21
国と広島、長崎両県が派遣する初の南米被爆者巡回医師団(団長・三橋昭男広島県環境保健部長、8人)の医師ら4人が広島を出発。県立広島病院の門前徹夫副院長、広島大医学部の小熊信夫、稲水惇両講師ら。24日、ブラジルのサンパウロ市で検診開始、初日は38人受診
1985/10/22
ワインバーガー米国防長官が「ソ連が新型大陸間弾道ミサイルSS25の配備開始」と述べる。米側が初めて公式に配備を確認
1985/10/22
日本原水協の山口勇子代表理事と広島で被爆した主婦早川耐子さん(岡山市)が、ジュネーブ国連欧州本部の「核兵器廃絶の集い」で被爆体験を話す
1985/10/23
ブルガリア・ソフィアで開会のワルシャワ条約機構首脳会議が新軍縮提案を盛り込んだ政治宣言を採択。(1)米ソは非核保有国に核兵器を配備しない(2)欧州配備の中距離核兵器の相互削減合意を目指す-など
1985/10/23
インドのガンジー首相とパキスタンのハク大統領がニューヨークで会談。双方の核開発が「平和利用」と確認する技術レベル協議の開始で合意
1985/10/23
原爆をテーマにした「女の一人芝居-広島の女・3部作」が広島市で上演。広島出身の演出家村井志摩子さんが書き下ろし
1985/10/23
ブラジル・サンパウロ市で南米初の原爆平和展。広島市が送った被爆資料や原爆の絵など90点を展示、原爆映画上映。原爆資料館の川本義隆館長が20~27日まで滞在、語り部を務める。11月10日まで
1985/10/24
国連軍縮週間が始まる。広島平和記念館で「軍縮関係パネル展」が開会。30日まで
1985/10/24
広島平和会館の原爆被爆者相談所が被爆者健康手帳交付の証人を捜す2人を公表。1972年7月以来、200回目。計593人を公表し、ほぼ全員が手帳取得
1985/10/24
仏がムルロア環礁で地下核実験。報道陣にも公開。環境保護団体グリーンピースの抗議船ベガの乗組員4人を「禁止海域に侵入」と逮捕
1985/10/24
ジュネーブで原爆資料展「ヒロシマ・ナガサキを繰り返すな」が始まる。11月9日まで
1985/10/24
国連総会本会議が1986年を「国際平和年」にする決議を採択し閉幕。国連創設40周年を記念する国連宣言は流れる
1985/10/25
ニュージーランドが仏核実験を非難。オーストラリアも「安全を主張するなら自国で」と声明発表
1985/10/25
広島平和文化センターが、平和問題などの基礎知識を整理した「平和事典」を編集、発刊
1985/10/25
「中津泰人遺句集慟哭」が発刊(「奥付」)
1985/10/25
荒木広島市長が仏核実験に抗議電報。27日、原爆慰霊碑前など広島県内20カ所で被爆者団体が抗議の座り込み
1985/10/26
英ロンドンで反核団体「核軍縮運動」(CND)が集会、デモ。約10万人が参加。オランダのハーグでも約2万人が反核集会
1985/10/27
広島県原水禁などが県庁前広場で「反戦・反核・平和行動」県中央集会。約3,000人が参加。米ソ両首脳に核兵器完全禁止の国際協定即時締結など求める要請文送付を決議
1985/10/27
国連軍縮週間にちなみ、広島平和文化センターが市公会堂で「広島市民平和の集い」。1,400人が参加。俳優の米倉斉加年、樫山文枝さんら参加
1985/10/27
仏がムルロア環礁で地下核実験
1985/10/28
第二次大戦の犠牲者を悼み平和を願って英のベンジャミン・ブリテンが作曲した「戦争レクイエム」広島公演。小沢征爾氏が指揮。被爆40周年で小沢氏が要望し実現
1985/10/28
筑波・科学万博の国連平和館から広島市に寄贈されたタイル壁画「平和のキャラバン-太陽」(原画、平山郁夫氏)が、広島平和記念館に常設展示
1985/10/28
児童文学者のエリック・ホガード(デンマーク)、ピーター・カーター(英)の両氏が広島を訪問。原爆資料館を見学、被爆者と語り合う
1985/10/28
荒木広島市長が仏核実験に抗議電報。29日、原爆資料館下など広島県内28カ所で被爆者らが抗議の座り込み
1985/10/29
インドなど6カ国首脳が、米ソに核実験の1年間停止を呼びかける声明をまとめ、両国に通告
1985/10/29
神奈川県と英ウエストヨークシャー郡が連携し、核兵器廃絶を求める共同声明を発表
1985/10/29
デンマークのフリージャーナリスト、トーマス・ピーダーセン氏が被爆者の戦後をまとめた「ヒロシマ-終わりなき悪夢」が中国新聞社に届く
1985/10/29
中国電力原子力立地推進本部が、山口県熊毛郡上関町への原子力発電所建設を1986年度施設計画に盛り込む構想を示す。萩市への立地は「地元の情勢次第」
1985/10/30
英がNATO加盟国で初めて、米戦略防衛構想(SDI)に参加を表明。18項目の研究で合意
1985/10/30
来日中のニュージーランド労働総同盟のジム・ノックス議長が広島で被爆体験聞く
1985/10/30
広島市の国連青少年友好センターの女子高生6人が英文の反核漫画描く。米ソ両首脳など世界170カ国の元首らに送付。11月18日までに13カ国の首脳から激励の手紙。12月14日、東欧圏の東ドイツ・ホーネッカー国家評議会議長からも親書
1985/10/31
日本原水協が核兵器全面禁止を求める552万4,461人の署名簿を国会に提出
1985/10/31
中国の人民日報(31日付)が「原子力潜水艦動力装置の製造技術を既にマスターし、核兵器を装備した部隊を所有」と、原潜所有を示唆
1985/10/--
米で非核地帯宣言自治体が100カ所に-。米の「非核アメリカ」機関紙(9・10月号)が伝える
1985/10/--
広島市の特別名誉市民フロイド・シュモーさんから広島県安芸郡海田町、海田中学1年6組に「平和を一緒に考えよう」との手紙届く。碑巡り学習で知り合う。11月15日、文化祭でシュモーさんらの業績を紹介
1985/10/--
原爆の惨禍を米で伝える「ネバーアゲイン・キャンペーン」のスタッフに、中国地方から徳山高校2年加藤由佳さんが選ばれる。1986年秋訪米

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