×

ヒストリー

ヒロシマの記録1984 1月


1984/1/9
スウェーデン平和仲裁協会の支援で、各国の市民による反核映画づくりを計画。提唱者の英映画監督ピーター・ワトキンス氏が来日、東京で記者会見。題名は「核戦争がおきれば」の予定
1984/1/9
日本グラフィックデザイナー協会(亀倉雄策会長)の「平和ポスター展」が東京でも開催。1983年10月、広島で初めて開きその後、大阪でも
1984/1/9
広島市の画家斉藤武四さんが自作の原爆ドームを描いた「燃ゆる」を広島市立船越中に寄贈
1984/1/9
米海軍軍艦事典に核積載の通常型米潜水艦が1959年から64年にかけ横須賀に寄港した記述があることが明るみに。外務省は否定、米は論評を拒否
1984/1/9
広島市が1985年の被爆40周年を記念して原爆慰霊碑改築を発表。形、大きさは変えず、御影石製に
1984/1/10
広島平和文化センターが、18日からスウェーデンのストックホルムで開かれる欧州軍縮会議(CDE)に原爆パネルなど20点を発送。記録映画の上映も要請
1984/1/10
原水禁団体や市民団体でつくる「原水爆禁止連絡会」が東京で総会。「被災30周年3・1ビキニデー」の統一集会を決める
1984/1/11
ブラジル・コチア市を中心にした日系二世研修訪日団の約70人が原爆資料館などを見学
1984/1/12
ボチコフ・ソ連科学アカデミー会員がジュネーブで記者会見し、米ソ全面核戦争の被害予測を発表。全世界で11億5,000万人が即死、10億9,500万人が火傷や負傷。全人類の約半数が生き残るが放射能により壊滅的被害
1984/1/13
米コロラド大医学部教授のカール・ジョンソン博士が、米医師会報にネバダ核実験の風下地区のユタ州南西部でがんが多発と発表。前年1月に発表したデータにその後の成果を加え、書き改める
1984/1/14
広島市安芸区の船越原爆被害者の会(浦田豊会長)が「被爆体験記集」を発行
1984/1/14
演歌歌手の藤沢浩司さんが反核演歌第2弾「語り部の女」を吹き込む。1983年4月には原爆乙女をテーマに「母のいのち」をレコード化
1984/1/15
呉原爆被爆者友の会会長の中津泰人さんが肝臓がんで死去。66歳。1974年に原爆句集「慟哭」出版
1984/1/16
ギリシャのアテネで「バルカン非核化」をめざしギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、ルーマニアが初の会議
1984/1/16
元広島市復興顧問の米ハーバード大行政学部長ジョン・モンゴメリー博士が原爆慰霊碑に参拝。1946年当時、広島軍政部法律行政科長(中尉)で木原七郎広島市長の求めに応じ復興顧問に。52年にも広島市を視察。今回は「広島の再建」の執筆を計画
1984/1/17
自民党科学技術部会(林寛子部会長)が原子力船「むつ」廃船を決定
1984/1/17
東西関係の修復を課題に欧州軍縮会議がスウェーデン・ストックホルムで開会。パルメ首相「東西間を結ぶ軍縮交渉はすべて中断している。私はこの討議が互いの誤解を防ぐ対話に発展することを望む」
1984/1/18
ストックホルムのソ連大使館で4カ月ぶりに米ソ外相会談。マドリード会談以来
1984/1/18
欧州軍縮会議会場に隣接のストックホルム市文化会館で「ヒロシマ・ナガサキ被爆写真展」始まる
1984/1/18
ソ連が東ドイツに新型核ミサイルの配備を確認
1984/1/18
武智鉄二監督の映画「高野聖」が被爆者を冒とくしている、と広島被爆者団体連絡会議(近藤幸四郎事務局長)が上映中止を求める。広島で被爆した女性が人並みはずれた性的能力を持つようになり、最後に破滅するという内容。21日、「長崎の証言の会」も抗議
1984/1/18
日本原水協(共産党系)が、国公立大の共通1次試験に出題された非核三原則の記述が不適切と抗議声明。問題は「自衛のための小型核兵器を持つことは違憲ではないが、主として非核三原則により、政策上核兵器を保持しないというのが政府の見解である」を正解とする
1984/1/20
広島市で米映画「ザ・デイ・アフターを見る会」を結成。相原和光広島YMCA総主事、河村盛明広島平和文化センター理事長らが呼びかけ
1984/1/20
1984年度予算大蔵原案で被爆者諸手当が2年ぶり2%増。85年被爆者調査の準備費も認める
1984/1/21
「核兵器の存在については肯定も否定もしない」はずの米が、北大西洋条約機構(NATO)諸国には備蓄量や配備場所などを連絡していることが明らかに
1984/1/21
米で原発推進に足踏み感広がる。シンシナティ・ガス・アンド・エレクトリックシティ会社が、建設中の原発を火力発電所に切り替え。インディアナ州の電力会社が資金不足で原発の運転を中止。イリノイ州でもほぼ完成した原発に運転許可が出ず
1984/1/21
核戦争映画「ザ・デイ・アフター」の一般公開を前に試写会(「長崎年表」)
1984/1/22
佐々木禎子さんをモデルにした合唱曲「折り鶴の飛ぶ日-原爆の子の像によせて」が広島市の平和記念公園内の「原爆の子の像」前で初めて披露。横浜市の浜名政昭さんが作曲、小森香子さん作詞
1984/1/22
広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(八者協)が、老人被爆者医療費の地方負担解消を自民党などに陳情
1984/1/22
米ソ外相会談で「中欧兵力削減交渉(MRFA)再開で合意」とシュルツ米国務長官が言明
1984/1/24
米の環境保護グループ「環境政策インター」(EPC)が、米の放射能人体実験報告をまとめる。(1)1945年にマンハッタン計画の一環としてニューヨークなど3カ所で4歳から69歳の死期の近い患者男女18人に計2万8,000レムのプルトニウム239を注射(2)60年から71年にかけシンシナティ大で国防総省の資金により死期の近い患者87人に最高250ラドの放射線を全身照射(3)63年から73年の間、米政府原子力委員会がワシントン、オレゴン両州の131人の終身刑の囚人のこうがんへ放射線照射(4)オークリッジ連合大が米航空宇宙局(NASA)の資金で69~76年の間194人の患者に放射線を全身照射
1984/1/24
広島市がオーストリアのザンクト・ウルリッヒ村の要請にこたえ被爆石を贈る。同村は人口約2,800人の小村、平和宣言をし村内に「国際平和の記念碑」
1984/1/24
広島県、市が武智鉄二監督の映画「高野聖」の上映中止を文書で申し入れ。「被爆者を著しく傷つける内容で、ヒロシマの心を踏みにじる」
1984/1/25
ソ連が中距離核ミサイルSS22を東ドイツ・ベルンスドルフに配備。米情報筋が確認
1984/1/25
ソ連のアンドロポフ共産党書記長が「ヨーロッパからパーシング2ミサイルと巡航ミサイルを撤去することが核軍縮交渉再開の唯一の道」と強調
1984/1/25
パレスチナ解放機構(PLO)のバカル・アブドル・モネム駐日代表が、原爆慰霊碑に参拝
1984/1/26
原爆犠牲者慰霊のため広島市南区似島の平和養老館に地蔵尊、安佐南区佐東町の毘沙門天に多宝塔
1984/1/26
ソ連のリトアニアなどバルト3国で反原発、中距離核ミサイルSS20の配備反対などの市民運動-。米紙クリスチャン・サイエンス・モニターが報道
1984/1/27
長崎市長の諮問機関である平和公園聖域化検討委員会が第1回の専門部会を開く(「長崎年表」)
1984/1/27
ネバダ核実験33周年(1951年1月27日第1回実験)に抗議して全米各地で反核集会。広島県原水禁なども国際連帯の座り込み。ユタ州シーダー市の「シティズンズ・コール」(ジャネット・ゴードン代表)が呼びかけ、英、カナダ、マーシャル諸島などでも
1984/1/28
京都の金牛院が核シェルター付きの本堂建立を計画し、臨済宗本山などから非難
1984/1/28
米の反核映画「ザ・デイ・アフター」が広島リッツ劇場で公開。3月9日までのロングラン、約2万人が観賞
1984/1/30
米ABCテレビ、米紙ニューヨーク・タイムズが映画「ザ・デイ・アフター」の広島上映の反響を取材。ABCは1日、原爆資料館から衛星中継で「ドラマと現実、広島の被爆者」(30分)と題し全米放送
1984/1/30
米が戦略爆撃機、巡航ミサイルも削減対象にするなど、米ソ戦略兵器削減交渉(START)の譲歩案を発表。31日、ソ連は「提案に新味がない」と拒否
1984/1/30
小規模の地下核実験は発表しない-と米当局が言明。エネルギー省「核実験場への侵入を防ぐため」。米紙ニューヨーク・タイムズは(1)すべての核実験の発表をやめたのは1983年から(2)公表の基準は爆発の規模。極小の実験は秘密にしている-と伝える
1984/1/31
米がネバダで地下核実験。エネルギー省が発表
1984/1/--
被爆した広島電鉄の650型路面電車が大修理を受け現役継続。650型は1942年に製作され原爆で3両が大破、1両が小破し、修理を受け走り続けてきた
1984/1/--
広島県佐伯郡廿日市町の高校教諭西尾禎郎さんが呼びかけ、教師や宗教家ら30人が「広島・太平洋市民連帯の会」を結成。機関誌「ブーゲンビリア」を刊行
1984/1/--
白血病で亡くなった佐々木禎子さんの「原爆の子の像」建立当時の広島市立幟町小児童会長の小牧律子さんが、米ウィスコンシン医科大助教授として放射線医学研究に打ち込む
1984/1/--
スイスの青年ゴーティエ・ロフラーさんが広島取材。チューリヒでヒロシマを伝える写真展や地元紙への寄稿などを続ける
1984/1/--
在韓被爆者の救援に尽力する広島市の河村虎太郎医師が全斗煥大統領から表彰。韓国原爆被害者協会が申請
1984/1/--
瓶に託した平和の願いが2年4カ月かけて太平洋を渡り、米カリフォルニア州の住民から返事。日本婦人会議静岡県本部と同神奈川県本部が1981年7月、「自分たちのできる平和運動」として瓶に折りづると核兵器廃絶の英文メッセージを入れ1,300本を太平洋に
1984/1/--
原子力船「むつ」の廃船問題をめぐり自民党内で論議。廃船急先鋒は若手議員を中心とする「原子力船を考える会」=中山太郎代表世話人
1984/1/--
「長崎平和高校生ゼミナール」が掘った被爆瓦がポーランド・アウシュビッツ博物館に展示(「長崎年表」)
1984/1/--
ギリシャのアテネで平和活動をしている日本人グループ「グループ・ノーモア・ヒロシマ」(中山ヤスコ代表)から手作りの冊子「ノーモア・ヒロシマ」が広島平和文化センターに届く
1984/1/--
米戦略爆撃調査団が撮影した1945年秋から46年春までの広島の被災状況を示す16ミリカラーフィルム10本に解説。広島平和文化センターが進める

年別アーカイブ